国破れて三階で見る大花火 佐藤文香 評者: 竹岡一郎

 「破れて」は「やれて」と読むのだろう。三階は二階より一寸高い。木造家屋だと普通は二階止まりだろうから、日常ではないところから見ているような、わくわく感がある。いろんなところが綻び破れてゆくこの時代に、日常から少し高い視点で見る花火は、ローマが燃えているのを見ているネロ皇帝の気持ちと僅かに重なるような気もしたりする。花火にアナーキーな喜びを映しているような感もあるのは、やはり上五の「国破れて」による効果が大きいだろう。
 しかし実は、最初読んだとき、松山あたりの古い三階建ての温泉旅館を思った。木造の、壁が全部硝子窓とか障子で、しかも硝子は気泡とか入っているような古いもの。遠くから見ると、旅館は巨大なランタンが聳えているように見える。その三階の窓が開け放してあって、窓にもたれている人を大花火が照らしている。もしかしたら、七十年前、やっと戦争が終わった後の風景かもしれない。国は敗れたが、温泉はあるし花火は揚がるよ、という喜び。しかし、当然、その花火の轟音と光に、空襲の記憶は甦る。半ば安堵、半ばトラウマの恐怖に浸されて見上げる人の頭上で次々と彩なす花火は、もしかしたら迂遠な意地悪をしているのかもしれない。関悦史に聞くと、「あれは、国破れて山河あり、の洒落だ」という。気づかなかった。それですっと頭に入るのか。けれども、単なる洒落ではない。戦争の記憶と、現代の穏やかに色々壊れてゆく国の有様と、そして夢幻のような景色と、三つの要素が巨大な立版古のように組み合わさって立っている。

「海藻標本」所収。107p

評者: 竹岡一郎
平成29年3月1日