湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太 評者: 高岡 修

 他誌の同様の特集にも書いたことだが「金子兜太の一句」とするとき、私はどうしても掲出の句を選ばざるをえない。西東三鬼の、
  広島や卵食ふとき口ひらく
 とともに、戦後を代表する俳句としているからである。
 偶然だが、共に無季である。私が意図して無季作品を選んだわけではない。
 では、この二句に時間的な要素は含まれていないのだろうか。いやいや、そんなことはない。恐るべき詩的現実の一瞬は、むしろ永遠性をさえ獲得しようとしている。
 あえて三鬼作品から照らすなら、この俳句が提示しているのは三つの時制である。すなわち、広島=死者の世界=過去、口=生の世界=現在、卵=未生の世界=未来、という具合である。
 つまり、死者の世界である広島で、未生の世界である卵を、生の世界である口が食うという構図である。原爆が投下された広島でないかぎり、卵を食う口が、これほど異様に照らし出されることはない。まさに詩的に異化された光景の具現と化している。
 兜太作品も同じ構図なのだと言える。爆心地である長崎で、くねくねとマラソンしているのは生者だけではない。全身が彎曲し、ずるりと皮膚の剝げた死者も走りつづけている。そんなにも懸命に死者たちは何処に行こうとしているのか。再生の場所としての未来である。結局、掲出句にも永遠にも似た壮大な三つの時制が現前しているのである。

※『現代俳句』2018年7月号金子兜太追悼特集「忘れ得ぬ一句鑑賞」より

評者: 高岡 修
平成30年11月20日