凍蝶となるまで生きることの意味 大牧 広  評者: 加藤光樹

 作品の鑑賞で作者の年齢に触れるのは些か抵抗を感じるが、この句を拝見した時は、作者の笑顔が眼裏に浮かんできた。現俳協の幹部として組織の充実に力を惜しまぬ行動力から近寄りがたい存在という印象が強かったが、初めて声を掛けていただいた時の親しみ深い笑顔は元気そのもの。
 この「凍蝶となるまで」は作者自身の生き方への決意の程を表現されたものと思う。蝶が花を求めて華やかに飛び交う姿は、俳人が句材を求めてあらゆる世界に目を向けて、ものを観る角度もさまざまに試みる姿にも似ている。自らの生き方を蝶の姿に托したことがいかにも俳人らしい。「凍蝶」は生きてきた日々を振り返り反芻しているかのように草木の枝に静かに留まっている。その姿には気品があると同時に生き通して来たことの誇りを見せているようでもある。「凍蝶となるまで生きることの意味」には一道に徹する意気込みを感じる。ある先輩から「俳句は現在の自分の想いを托して詠め」と教えられたが、その真髄を見るような気がした一句である。草木の枝に留まっていても華やかな色彩を失っていない「凍蝶」に誰にも近づいて来る高齢期を思い描きつつ「生き続けることの意味」の大切さに作者自身の決意をも込められていると思う。
 同じ句集の中に「開戦日未明の足の攀りにけり」「日本の勝つてゐし頃炭いぶり」という句を見た時は、戦中戦後の激動期に青春を過ごされて、良い意味での大和魂を貫き通して来られた国を愛する心は大切であり、あらためて「凍蝶」の心の中を見たような気がした。

出典:『冬の駅』(平成二十一年四月刊)

評者: 加藤光樹
平成21年10月21日