春の水あふれひとりを持てあます 大高 翔 評者: 田付賢一

 私が最初に大高翔に会ったのは、まだ彼女が立教大学の二年に在学中の頃だった。ある新聞の取材に同行して、その頃翔がひとり暮しをしていた池袋の2DKのマンションを訪ねた時である。
 その輝く眸をまっすぐ向けて「わたしの日日が、わたしの心のありかがそのまま俳句という詩に生まれかわるのが楽しいんです」と語ってくれたのが今でも強く印象に残っている。
  春の窓ふいて故郷に別れ告ぐ
 翔は徳島の高校を卒業し上京、立教大学に入学する。その時すでに翔は第一句集『ひとりの聖域』を刊行している。十八才の春だ。
  春の闇やさしい声が開きたくて    春
  登校拒否額紫陽花を見ていたり    夏
  月を待つ自分ひとりの聖城で     秋
  やりきれない涙のまんなか冬日影   冬
中学から高校にかけてのみずみずしい感性と、「ひとり」という言葉から伝わってくる屈折した心情に胸打たれる。
 そして一年後翔は、第二句集『17文字の孤独』で若手俳人として脚光をあびる。
  朧夜の香水そっとつけたして     春
  くちづけのあと真っ赤なトマト切る  夏
  猫の背に降りおちていく秋の光    秋
  鍵なげて枯野の夕日に立ちつくす   冬

 それから何年かしてあるテレビ番組の収録で再会した翔は十二単衣の衣裳をまとい、大人の女性の美しさを十分に感じさせていた。なぜか芭蕉の衣裳の私の前で、その日も俳句への情熱を静かに語ってくれた。しばらくして翔は結婚、今は一児の母である。池袋のマンションで「ひとりを持てあまして」いた大高翔も今では妻として母として、そしてこれからも俳句界の若き女流俳人として輝き続けるだろう。『17文字の孤独』にそうした翔を予感させる句が残っている。
  胎内のリズム思い出す春の光

出典:『17文字の孤独』

評者: 田付賢一
平成22年3月21日