持論淋しく椎葉の闇へ入り行く 安井浩司 評者: 木村聡雄
安井浩司は秋田に生まれ、青森の寺山修司らの「牧羊神」などを若き日の俳句の出発点とした。「御燈明ここに小川のはじまれり」(『阿父学』)など、その作品は根源的な問いかけから発する。また、東北土着の観念的混沌を俳句に深く定着させようとする。掲出句は、『句篇』に収録。句集の副題には「―終わりなり わが始めなり―」の言葉が置かれる。この副題について著者は「観念よりも更に自己劇化されたもの」と語っているが、その終わりである始めはこの句にも示されているだろう。大きく薄い椎の葉陰へと隠れ行く持論。それは、詩的たりえないあらゆる意味性を遠ざけようとするごとく、他者には容易に理解されがたい孤高の詩論の姿のようである。最近の句集『空なる芭蕉』にはたとえば、「花鳥書に記されてみな棄てられつ」という詩論とも見るべきの句が現れる。世の俳人の多くが自然や季感を描こうとしてその地平になかば呑み込まれてゆくなか、安井はその様子を、題材を棄てる行為そのものと断定する。椎葉の句は、薄闇にひとり身を潜めながら、論理を超えた非合理なこの世界の本質を射抜こうと葉陰から俳句表現に狙いをつけ、つぎつぎと表現の革新をなしてゆくその詩論のありようを暗示しているようである。
出典:『句篇』
評者: 木村聡雄
平成24年3月21日