けふぞはや見ぬ世の旅の更衣 大淀三千風 評者: 瀧 春樹

 信徳や桃青を「小短冊」と斬って捨てる理由の一つに次のようなことが喧伝されていた。
 桃青は行脚の際、三ヶ月しか仙台に逗留しなかった。これは三千風の勢力が強くてあまり歓待されなかったのではあるまいか、と――。
 三千風の俳諧における知名度は勿論、神道を説き仏教を論じ、謡曲をうたいはては冗談を言っては大いに人を笑わせ、その度に号を使い分けていた。寓言堂、頂雲軒、呑空法師、無不非軒など、俳諧の折の三千風を加えると十五を超えている。所謂世渡り術の巧さの秘密はこんなところにあったのかも知れない。
 相州・神奈川県大磯で三千風は遊女達に仏の道を説き、西行庵を建てて曽我十郎の妾であった大磯の遊女・虎御前の像を安置し、大磯の渓流を鴫立沢と命名したが、これは西行の《心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ》という歌があり、それを知りながらの所業は狡猾者である、との悪評も買っている。がそれらのことは三千風の一断面ではあっても俳壇の中では他に抜きんでており、ひときわ目立って優れていることに違いはないと擁護する人も沢山いた。
 ただこの行脚中に芭蕉や信徳などと連歌や俳諧で会席に連なることのなかったのは残念なことであったらしい。
 この行脚文集は七年の歳月を費し、三千八百余里を踏破した記録であるだけに、予想しない程の膨大なものであった。これでは版行費が都合つかないと言うことで、二度の書き直しの後、約三分の一の分量にして出版した。
 三千風の「一生の大願望を遂げし大著述」として、冒頭の句が辞世の句として記録されている。
 余談ながら行脚の間中、馬や駕籠に乗ることもなく宿泊に苦労したり「一飯に飢えたることなく」そして病には一度も罹患しなかったと言われている。
評者: 瀧 春樹
平成25年1月31日