かな女忌や石の平らに水を盛り 山本紫黄 評者: 網野月を

 山本紫黄の句は、その師西東三鬼のニヒリズムの裏返しのような作風と言ったら、あまりにも俳諧的な評になってしまうかも知れない。現代俳句の作家として位置付けるのが妥当だろうと考えるが、「俳句の職人」と評されていたことを思うと、その存在感が独特のものであったのだろう。
 上五の「かな女忌や」のかな女は、無論長谷川かな女のことである。紫黄の父山本嵯迷はかな女の弟子であり、また有力な後援者の一人であった。その関係から紫黄はかな女の『水明』に一時身を置くものの、やがて距離を置くようになっていった。二代目主宰長谷川秋子になって後、再び同人として積極的に参加している。その間十五年ほどの間に、紫黄は西東三鬼に師事し、また『断崖』で三橋敏雄ほかの俳友を得ることになるのだ。掲句は昭和五十六年に刊行した第一句集『早寝島』に収録されている。その時既に長谷川秋子も鬼籍に入っている。
 紫黄の俳歴から想像するに、かな女との微妙な関係性が浮かんで来る。句景は、九月となるかな女忌に墓参して墓石に水を盛った、ということなのだが、句に込めた意は深い。表面張力だけを言うならば、敢えて「かな女忌」でなくとも良い訳である。(「西東忌」=「三鬼忌」は三句なのに対して、「かな女忌」=「龍膽忌」は六句ある。)
 収録している『早寝島』は何とも不思議なタイトルである。句集には「早寝島」を詠み込んだ句が三十句ある。その全ての座五に「早寝島」を配している。「佛壇に抽斗はあり早寝島」「象嵌の金の失せしよ早寝島」「萬歳を肘で唱和の早寝島」などが並ぶ。早寝島=日本国であろうと筆者は想像しているが、確証はない。生前、本人にうかがったがはぐらかされてしまった。

出典:『早寝島』、水明発行所、昭和五十六年二月刊。

評者: 網野月を
平成27年12月11日