おほまかに父は描かれ九月果つ 嵯峨根鈴子 評者: こしのゆみこ

 嵯峨根鈴子さんの第三句集「ラストシーン」所収。この句の父親像がいろいろに読めてしまってとまどう。一般的な読みとして、幼い子どもがお父さんの顔を「おおまかに」眉や目や口を描いたということだろうか。ひょっとしたら顔の○だけの父親象?しかしこの句に子どもが持つ愛らしさは描かれていない。「父は描かれ」という受け身の父親の表情もわからない。下五の措辞が「父の日」や「花の季語」が来たのなら学校の参観日風景や家庭でのほほえましい親子像が見えてくるのだが、この下五の「九月果つ」の転換によって、あたりまえの親子関係から読者は置いてけぼりをくらう。「九月果つ」に父の不在を感じるのは私だけであろうか。作者がのどかな親子像を描くことを拒否していることは確かだ。「おほまかに父」を描くこの子は本当は父をよく知らないのではないか。もっと言えば、おほまかに父を描いたのは幼い子どもではなく、描いたのもお絵描きの紙ではなく心かもしれない。その人は(追憶の)父を「おほまかに」しか描かない、語らない、父とは遠い存在なのではないかと思ってしまう。この句の「おほまかに」と「九月果つ」という何でもないふつうの言葉の結合が読むほどに、子のさみしさ、父というさみしさをそこはかとなく感じてやまない。
 嵯峨根鈴子さんの句はこんな風にぶっきらぼうだったり、しずかに拗ねたりしていて立ち止まらずにはいられない。

  白ふくろふ死者のてのひらかとおもふ
  ボス猿の荒れるや明日はクリスマス
  どの蓋も合はなくて母だと名告る

評者: こしのゆみこ
平成28年7月16日