わが厨大銀河から水もらう 白井重之 評者: 森野 稔

 白井重之について「海程529号」(2017年1月号)において武藤鉦二が「風土一徹の男」と題して一文を呈している。白井の句は富山県立山の山麓で旦暮に山を仰ぎ、そこに土着して生活する村人との接点の中で多くの作品を残しているので、彼の本質を語る場合はそれらの句を選ぶべきであろうが、敢て上記の句に付いて述べる。
 その論文の中で武藤は重之の師である金子兜太の興味深い言葉を引用している。「白井重之の青年時代の屈折感というか挫折感のようなものがやがて結婚し、子を得て地域で自立していく過程で身心ともにまぎれもなく土地に定着するに至った」。
 青年時代の屈折感・挫折感は誰でも持つものである。重之の場合はどうだったのだろうか。恐らくは青少年時代は文学に飢えたいわゆる「文学青少年」だったに違いない。その文学に対する渇望は現実の生活の中で普通は埋没してしまうのだが、重之の場合はそれを今も持ち続けている稀有な作家と言える。だから近作でも青年のようなロマンを帯びた作品が随所にある。
  桶は要りませんか鳳仙花いっぱいも
  冷たい耳のきみを枯れた林で抱く
  鳥の番人希望です青い目しています
 さて、掲句に入る。一読して壮大なロマンに包まれてしまう。厨と大銀河を結ぶのは水。その清冽な迸りは誰の介在も許さない銀河との直接対話である。かといってロマンだけに終っていない。この句には立山という大銀河に最も近いところで生活を営む作者の日常がある。いわば句全体をオブラートの様に包むのはまぎれなく風土であり、風土から絶対に逃れることのできない宿命を伝えている。

出典:『谷と村の行程』(平成28年9月刊)

評者: 森野 稔
平成29年8月1日