どの古墳も草生え夕陽のように冷たい 前原東作 評者: 高岡 修

 ときに言語は不思議な働きをする。たとえば、掲出の作品における「夕陽」という一語のような働き方である。つまり、この作品において「夕陽」は直喩として「冷たい」を修飾するためだけに使用されているわけだから、この作品が描く世界に「夕陽」それじたいは存在していない。ところが、一度そこに「夕陽」という一語が置かれるやいなや、それがたとえ直喩のような使用であったとしても、この作品から「夕陽」の像を払拭することができない。それどころか、「古墳」や、そこに生えている「草」よりも、むしろ「夕陽」の像の方が、強烈な印象として迫る。そのありようは、まるで「夕陽」それじたいがこの作品の主題ででもあるかのようだ。最短詩型である俳句固有の言語の働き方と言えようか。
 ここでもう一句、その言語の働きの不思議さにおいて私を捉えて離さない作品をあげてみたい。

  怒らぬから青野でしめる友の首   島津 亮

である。この作品の「青野で」の表記に私はどうしても二つの意味を同時に感受してしまうのだ。「で」の働きがもたらす、場所としての「青野」であり、方法としての「青野」である。というより、白状してしまえば、この作品に出合った十代の頃からつい先年まで、私はこの作品を、方法としての「青野で」という解釈でしか捉えていなかった。私には、「怒らぬから」という導入によって提示される「友の首」は、青い性感をもともなって、まるで青いスカーフでしめられるかのように、「青野」でしめられていたのである。

出典:『前原東作全句集』

 評者: 高岡 修
平成24年4月11日