なにもかもなくした手に四まいの爆死証明 松尾あつゆき 評者: 佐藤文子

 自由律俳人松尾あつゆきは、昭和20年8月9日、長崎に投下された原子爆弾によって妻と3人の子どもを亡くしている。
 昭和2年、千代子と結婚。23歳であった。長崎商業学校の英語の教師を務める。24歳の時に自由律俳句『層雲』に入門。12年後、同人。層雲賞を受賞したのは38歳の時。昭和20年8月、あつゆきは、41歳。原子爆弾によって自宅は倒壊し、家の前で長男、次男、次女を火葬し、妻と長女とともに妻の実家に世話になるが、妻は被爆後4日目で亡くなる。8月15日、終戦。妻を小学校校庭で火葬する。そして4枚の爆死証明を受け取る。
  とんぼう子たちばかりでとほくへゆく
  この骨がひえるころのきえてゆく星
  炎天妻に火をつけて水のむ
  降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ
                    『火を継ぐ』より
 やがて生きのびた長女と共に佐世保市に転居、佐世保第二中学校の英語の教諭となる。昭和23年芹沢とみ子と再婚。長女みち子も結婚する。間もなくとみ子夫人の姉宅(長野県千曲市)に寄寓する。「心の痛手を癒して新しい生活に入るには被爆地を遠く離れるに如かずと考え、幸い、つてがあって長野県の高等学校に転任した」と、『原爆句抄』のあとがきに記されている。しかし、松代高校を定年退職後は長崎に戻っている。長野県の教職歴は11年7カ月であった。
 昭和36年8月、俳人12人による原爆合同句碑が長崎市下之川橋国道沿いに建立された。後日長崎原爆資料館の公園に移設されたが、12人の句の最初にあつゆきの句<なにもかもなくした手に四まいの爆死証明>が刻まれている。ちなみに12人の句には金子兜太の<彎曲し火傷し爆心地のマラソン>、穴井太の<夕焼雀砂あび砂に死の記憶>もある。尚、あつゆきは昭和58年10月、79歳で生涯を閉じている。
 あの忌わしい戦争、原子爆弾の投下から67年が過ぎた。本当の原爆の恐ろしさを知っているのは被爆し、死んでいった人たちだ。松尾あつゆきの『原爆句抄』『火を継ぐ』をあらためて読むことによって、その恐ろしさを実感する。

出典:竹村あつお編自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験『花びらのような命』2008年龍鳳書房刊

 評者: 佐藤文子
平成24年11月1日