欧米俳句と干支 

木村聡雄

うさぎ年/今度は誰もクロッカスを/踏みつけない C.エイブリー
 Year of the rabbit:
 For once no one steps
 on the crocuses C. Avery

暗い冬の日/兎の石像が見る/空っぽのプランター エド・ブリッケル
 gray winter day
 the stone rabbit stares and stares
 at empty planters Ed Brickell

(2句ともModern Haiku 54.2, Summer 2023から)
[Japanese translation: Toshio Kimura]

Modern Haikuはアメリカを代表する俳誌(年3回程度発行の準季刊)。1969年創刊。ロバート・スピース記念賞(第2代編集長)などを毎年開催している。雑誌の内容は「俳句と川柳」(日本式に言えば単に「俳句」であって、いわゆる「川柳」ではない)、「評論」、「俳文」(欧米では俳句作品同様に人気がある)、「書評」からなる。第3代編集長のリー・ガーガ氏は現代俳句協会国際部を2度ほど訪れ講演をしてくれている。また、書評欄ではかつて私の英語句集Phantasm of Flowersを取り上げてもらったこともある。

この原稿を書いているのは2023年末なので、ゆく年を思いつつ、昨年の号から「兎」が描かれた句を引用する。日本の干支は中国から伝わり、他にいくつかのアジアの国々で用いられているとのことだが、英語でもたとえば “Chinese Zodiac (Signs)” (“Zodiac”はもとは西欧の星座占いに出てくる12星座のこと)などと知られている。特に俳句に関心のある欧米人なら日本の干支についての知識もあり、自分の句に詠み込むこともあるだろう。
「うさぎ年」は引用句にように “year of the rabbit”で通じるが、海外の干支に関して筆者が思い出すのは、イギリスの音楽家アル・スチュワートの70年代の名曲 “Year of the Cat”である。曲名をそのまま訳せば〈ねこ年〉。この曲を聞くたびに、なぜわれわれになじみの深い猫が干支に入っていないのか、というだれもが聞いたことのある話が思い出される。それは、「鼠に嘘をつかれて、決められた日に神様の元に行かなかったため十二支に入れてもらえなかった。そのため猫は鼠を嫌いになった」という滑稽なものである。(この鼠と猫の関係性については、アメリカのアニメコメディ『トムとジェリー』、つまり、間抜けな猫トムとずる賢い鼠ジェリーとも似ている。)他方、一説によるとベトナムでは〈うさぎ年〉が〈ねこ年〉になっているそうで、それなら今回のテーマの〈ゆく年=うさぎ年〉と繋がっているような気もする。アル・スチュワートもベトナムのねこ年から歌詞のインスピレーションを得たと言われている。この曲の主題は謎の女性(スパイ説もあり)に誘われて一瞬の夢幻を見るという内容なので、ここはやはり兎というより猫のイメージなのだろう。

1句目、「うさぎ年」の句。クロッカスは欧米では春を告げる花であり、花言葉は「若き日の喜び」。この句は書かれていないさまざまなイメージを包含している。まずは去年の春に踏みつけられてしまったこの花の無残なようすが浮かんでくるだろう。もし庭に咲いていたなら、犯人は天気のいい日に庭に放した飼い〈兎〉か、あるいは駆け回る子どもたちか。句の向こう側にはそうした元気いっぱいの様子、さらには踏んでしまって叱られている誰かの様子さえ見えてくる。いずれにせよ、作者の花への愛が滑稽味をもって表された作品である。

2句目、真ん中の行がやや長めに感じられるのは、全体のシラブルが4・7・5と日本式の定型風を意識しているため。1行目は4拍しかないがこの行末に〈切れ〉が来るので、私の考えでは、著者はおそらくそれを1拍分と解釈して5・7・5のつもりなのだろう。庭先に石の兎の置物を飾っている家は日本でもよく見られる。どれも可愛らしい表情なのだが、石像は石像であって動かない。ただ一方向を見つめるばかりで、その視線の先にはたまたまプランターが置いてあったのである。それが空っぽであるにもかかわらずじっと見続けているとは、石像の目が「何も見てゐない(高柳重信)」ことを示している。“empty”の一語に込められた冬の虚ろ。そしてこれは春を待ち焦がれる句でもある。

[“Western Haiku and Chinese Zodiac” Toshio Kimura]