ある日の書店
👤柏柳明子

 

今年から父の病院と薬局通いの付き添いを始めた。
父ひとりでも服薬管理がしやすいので処方薬の一包化を毎回お願いしているのだが、次回の診察は来年となるため量が多く、薬局から出来上がるまで外で時間をつぶしてくるように言われた。

「暇つぶしに書店へ行こう。お前の好きな本を買ってやる」

返事をする前に父の足は目と鼻の先の駅ビルへ向かっていた。
しかし書店に入ると、父はもう私に言ったことを忘れて歴史本コーナーへ。
「30分後に入り口で待ち合わせね」と声をかけると父は大きく頷いた。

書店をゆっくり回るのは久しぶりだった。
こういう時は俳句の本も覗くが、普段は縁のないコーナーや棚を優先して見るようにしている。
社会学や理工系、経済等。実際に手を取ることは少ないが、平積みの表紙・帯のコピーや背表紙のタイトルを見ているだけで楽しい。
著者や編集者がいかに一目で内容が伝わるようなキャッチ―なネーミングにしているか、それによって売り上げに結びつけようとしているか。
そんな編集・営業の双方の努力が伺えるようで興味深い。

さて、今回は久しぶりに絵本のコーナーに行った。
京極夏彦の怪談絵本『いるの いないの』が評判と聞き、読んでみたかったのだ。
あいにく書店にはなかったが、最近の絵本から懐かしい『ぐりとぐら』シリーズまで揃っており気ままに手に取ってみた。
大人の本とは違う絵本ののびやかな個性、本質に切り込む簡潔さ、書体の多様さ、紙の質感の安心する手触り。
葬儀後の疲れ切った気持ちが一時、和んだ。

とくに『ぐりとぐら』。
この本には思い出がある。
十数年ほど前、保育士試験の実技試験でこの本を暗記して試験官の前で披露したからだ。
現在の試験概要は知らないが、当時の実技試験は「音楽(ピアノの弾き歌い)」「言語(絵本を暗記して読み聞かせ)」「造形(課題の絵をその場で描く)」の3科目で、筆記試験の合格者は3科目から2つを選択し試験日までに準備する必要があった。

私は3科目の中から「音楽」「言語」を選択した。
音楽は十代半ばまでピアノをやっていたので安物のキーボードを購入、課題曲に伴奏をつけて独りで練習した(ちなみに課題曲の楽譜には主旋律だけが示され伴奏はない。そのため、伴奏部分は受験生がそれぞれ作る必要があった)。
その時の課題曲は「いるかはザンブラコ」なる未知の歌だった。

そして、言語。
当時の試験だと「3歳向け」「4歳向け」「5歳向け」の絵本が対象で、どの年齢のお話を試験官が指定してくるのか、部屋に入るまでわからないシステムだった。
面倒くさがりの私は『ぐりとぐら』が「5歳くらいの子どもまで対象(だったと思う)」と書かれているのを見て「これなら、何歳の指定がきても一冊で対応できるや」と図書館で借りた。

しかし、実際に暗記を始めるとそう単純でないことがすぐにわかった。
声の抑揚とテンポ、身振り手振り。
子どもが引き込まれるような語り口は、間は。
そして、実際にお話を口にしているとリズムの良さ、物語の展開にワクワクした。
絵本の奥深さを改めて知ると同時に、幼い頃のページを捲る楽しさを思い出した。

それから数か月間。
会社から帰宅後、句会のない日は近所迷惑にならない範囲で「いるかはザンブラコ~♪」と小声で弾き歌い、ぐりとぐらの大きな卵から焼けるケーキの匂いや食感を想像しながらやはり小声でひとり演劇部状態を続けた。
その結果、何とか実技試験をパスすることができ、晴れて保育士資格を取得した。

「もう30分経ったぞ」

遠くから父の声が聞こえた。
私は絵本を閉じて、書店の入り口に戻った。
保育士資格は小児保健の本を作るために取得したもので、制作には念願叶って携わることができたが、実務ではいまだに使用できていない。
街中で親子の姿を見ると、「母親」というありえたかもしれない、もう一つの自分の未来を思う。
そんなとき、子どもの俳句が浮かんだりする。
子育て経験も実務もないが、せっかく取った資格。
大変で責任が重い内容だが、こんな私でも今から実務で使ってみてもよいのかな。
今まで考えたことのなかった未来が頭の隅にちらつくこの頃である。

絵本から飛び出すケーキ小六月
               明子

柏柳明子(かしわやなぎ・あきこ)
1972年生まれ、神奈川県横浜市出身
「炎環」同人、「豆の木」参加、現代俳句協会会員
第30回現代俳句新人賞、第18回炎環賞
句集『揮発』『柔き棘』