マンガと俳句
── 視覚と十七音の共鳴
👤飯田冬眞

幼い頃、手塚治虫先生の描く世界に夢中でした。
「ブッダ」「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」といった傑作の数々を読み返すうちに、私はあることに気づいたのです。
それは、マンガ作者が物語を紡ぎ出す上で大切にしている五つの「ポイント」の存在です。そして驚いたことに、そのマンガの技法が、わずか十七音に世界を凝縮する俳句の創作と、不思議なほどに通じ合っているように感じられたのです。
このエッセイでは、そんなマンガと俳句の共通点を探りながら、それぞれの表現が持つ奥深い魅力に迫ってみたいと思います。
最初のポイントは、マンガ制作の根幹をなす「プロット」、すなわち物語の骨組みです。
これは、俳句における「季語」や「主題」に相当すると言えるでしょう。
作品全体の方向性を決定し、読者に伝えたいメッセージや世界観を形成する、まさに核となる部分です。
例えば、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」という句で言えば、「万緑」という季語が示す初夏の生命力と、「吾子の歯生え初むる」という主題が織りなす親子の愛情こそが、この句のプロットなのです。
次のポイントは、「ネーム」です。
これは、コマ割り、セリフ、絵の配置をラフに描くことで、全体の流れやリズムを設計する重要な工程です。
これは俳句の「句の構造」や「切れ字の配置」に酷似しています。
五七五の音数律や「や」「かな」「けり」といった切れ字が、一句の中に「間」や「呼吸」を生み出すように、ネームもまた、視覚的なリズムと物語のテンポを司ります。
三つ目のポイントは「構図」。
これは、アップ、ロング、俯瞰、アオリといった視点の変化によって、読者の感情や状況を巧みに演出する技法です。
俳句にも「視点の飛躍」や「映像的な描写」という表現があり、限られた言葉の中で、あたかも絵を見るかのような情景を描き出します。
先の俳句であれば、万緑の全景から吾子の口元へのズームアップは、まさに構図による視点誘導の妙と言えるでしょう。
そして四つ目のポイントは、「表情・デフォルメ」です。
これは、誇張された表情や記号的な表現で感情を可視化します。
汗やハートマーク、雷といった記号は、言葉では伝えきれない感情を瞬時に読者に届けます。
これは、俳句の「象徴性」や「余白による感情の喚起」に通じるものがあります。
直接的な描写を避け、暗示や示唆によって読者の想像力を刺激し、深い感情を呼び覚ます手法です。
最後の五つ目のポイントは、「トーン・背景」です。
これは、モノクロの濃淡やパターン、背景の描写によって、心理状態や場面の雰囲気、つまり「空気感」を演出します。
俳句の「季語による情景描写」や「間の美学」と共鳴し、省略された言葉の裏に隠された情感を表現します。
このように、マンガと俳句には、以下のような共通点が見出されます。
• 凝縮された表現
マンガの1コマ、俳句の十七音は、限られた空間で最大限の意味や感情を伝える。
• 視覚と感情の融合
マンガは絵で、俳句は言葉で、読者の感情を揺さぶる。
• 間と余白の美学
マンガのコマ割りや空白、俳句の切れ字や句またがりは、読者に「想像の余地」を与える。
• 象徴性と暗示
どちらも直接的に語らず、象徴や暗示で深い意味を伝える。
つまり、マンガの技法は、まさに「視覚的な詩」として捉えることができるのではないでしょうか。
絵と言葉、そして省略によって作り出された「間」によって、読者の心に深く響く情景と感情を織りなすマンガは、短い言葉の中に無限の宇宙を広げる俳句と、表現の極意において深く共鳴し合っているのです。
裸婦像の重心は右冬に入る
冬眞
飯田冬眞(いいだ とうま)
東京都練馬区在住
「磁石」編集長 「豈」「麒麟」同人