第26回現代俳句協会年度作品賞
なつはづき「朱夏」
【 解 題 】
なつはづきの「朱夏」を読んで
👤栗林浩
第26回現代俳句協会年度賞のひとりに、「朱夏」(三十句)を書いたなつはづきが選ばれた。選考委員諸兄の熟議を経て、苛烈な競争を潜り抜けた結果であり、心からお祝いを申し上げたい。
このような賞の発表があるたびに、筆者が思うことは、その作品群に作者の「作家性」がどのように表れているか、ということである。色々な句会に出して、評判の良かった作品を並べただけではない筈だと思う。そこに作者の表出したい何かが明らかになっている必要があると、日ごろ思っている。イデオロギーや哲学があるか、と問うている訳ではない。作者自身の詩や生き方や美学が現れているかを知りたいのである。それらを纏めて「作家性」という言葉で括ってみた。
さて、なつはづきの「朱夏」三十句を通底しているものは何であろうか。筆者の好みの句を挙げて、そこから眺めてみよう。
空耳は泣く声ばかり著莪の花
蛇いちご母をまっすぐ見られぬ日
かぶと虫かさりと父の戻る夜
合歓の花風から目くばせをされて
足裏の恥じらうプール開きの日
髪洗う人魚の頃を思い出す
これらをひっくるめて一言でいえば「ある女性のひと夏の微妙な身体感覚・定まらぬ心理状態」ということになるだろう。それが、筆者にとってのなつはづきの「作家像」なのである。後のことだが、二句目は、テレビの俳句番組で全員が特選に選んだ句であった。
こう書いてきて、一句を取り出して鑑賞しようと思った筆者は、なぜか前記の「作家性」に収まらない次の句を選んでいた。
臨月の腹万緑に押し返す
三十句の中では珍しい一句である。これも後日談だが、評判の良かった「蛇いちご」の句をテレビに出す前は、この「臨月の」の句を出したいと考えていたとのことであった。
筆者がこの句を選んだのには、極めて私的な訳があることをご容赦戴こう。「共時性」を強く感じたのである。
南米に頻繁に行き来していたとき、日本とは違う人々の振る舞いに驚いたものだった。小雨なら濡れるのも平気で傘を差さないし、街を歩く女性はとても開放的で、スペイン系の混血が多いためか、美人が多い。彼女らは「日焼け」が裕福な婦人の条件だと信じていて、日焼けを苦にせず(だからか老婦人の肌にはシミが多い。小太りのその胸には太い金のネックレスがジャラジャラと揺れている。それがステイタスなのである)露出度の多い服を着ている。炎天下の街なかを臨月とも思われる女性が、大きなお腹を突き出して闊歩しているのは普通のことである。日焼けした腹を露出し、タトゥ―を見せつける。臍にはピアスが付いている。
この句を選んだ理由を考えると、読者は作品に「共時性」を感じたとき、つい選んでしまうのだと気が付いた。そのとき「作家性」の範疇を飛び越えていることに、あとで気が付くのである。そのあとで、この句を「作家性」の中に取り込もうと、なつはづきの「作家像」を修正するのである。
そうなのだ、彼女の作家性は、微妙な甘酸っぱい身体感覚や心理描写の情念を超えて、見たモノやコトから受け取ったエネルギーを読者にぶつけることをやってのけるのである。作家性が広がったとでもいおうか。
第26回現代俳句協会年度作品賞
水口圭子「消えるため」
【 解 題 】
継続の成果
👤石倉夏生
はじめに受賞作品より数句を掲出し、鑑賞しつつ作者の個性を確認してみよう。
俳句の個性とは、何を書くかどう書くか、つまり発想と措辞でその可否が決まる。短い俳句の独自性とは、柔軟且つ自在な発想と抑制された措辞とで決定される。そう言い換えてもよい。
消えるため人の世に来る雪螢
表題の1句であり自信作に違いない。微小ゆえに存在の危うい雪螢。浮遊する極小の命。どこから現れどこへ消えるのか。作者はその不確かな存在感を、「消えるため人の世に来る」と詩的に断定した。着眼が秀抜である。もしかしたら人間の存在も同じようなものかも知れない。
葉桜や懺悔にちょうど良い暗さ
短い俳句は言葉と言葉の相互反応でその質が決まる。その好例である。「葉桜」の樹下の鬱蒼感と「懺悔」の語感の秘密めいた情念との配合。二つの言語の質感の対比だけですでに成就している。ドラマ性が表出されており、これから吐露する内容のイメージが読者の想像力を刺激する。
けものみち紅椿より始まりぬ
いうまでもなく野生動物が行き来して自然にできた道が「けものみち」。その入り口に紅椿が咲いていた、という掲句の第一義の読みはその通りだが、「けものみち」に比喩性を意識して読むと、俄然、奥行きが変化する。妖しい情念のシーンが顕現する。意味に二重性のある好句である。
いま30句より3句を引例して言及したが、されど3句、発想の独自性、措辞の言語の選択の巧みさは読み取れる。主題の切り取りとその韻律のバランスン感覚のよろしさも伝わってくると思う。
ところで作者とは長い歳月、地域の同人誌「地祷圏」に籍を置き、一緒に俳句を学んできたが、作者の根気強い作句意欲と、修練された感性は、仲間たちの間でも定評がある。このたびの受賞も、その作句意欲の集大成といってもよい。それは長い年月の継続の成果に違いない。
作者は平成11年に第1句集『現在地』を刊行しているが、そのあとがき「嵐の中の木の実」の文中で、俳句との偶然の出会いを嵐か運んできた木の実に喩え、次のように述べている。
「その実は私の中で芽生え、少しずつ成長していった。そしてこれから、どんな風にも、たとえ嵐が来ても倒れぬよう、しっかりと根を張った木に育てたいと願っている。」と結んでいる。
句集刊行から25年の歳月が経過した現在、当時の若木が大木に成長し、太い枝々を青空に伸ばし、潤いのある木陰を広げている。受賞作はまさにその枝々の代表といってもよい。
もう一度作品に視線を戻して、その潤いの、表現の魅力の描写力を探ってみよう。
吊革の雫のかたち晩夏光
見立ての発想。車中の吊革を巨大に膨らんだ雫、落ちる寸前の滴りと見た。まさに絶妙である。
秋風生まる牛の眉間の旋毛より
確かに牛の眉間には旋毛がある。その旋毛から旋毛風が湧き、秋風となる。シュールな理路整然。
ぶらんこの有ったところの水たまり
見過ごしてしまう光景への着眼。ありふれた場面を凝視、執着して獲得した作品に違いない。
ここで同一のテーマの2作品を掲出しよう。
鳥渡るピアノの蓋を開けるとき
連弾のピアノに映る聖樹の灯
配合された季語は「鳥渡る」と「聖樹」。黒光りする重厚なピアノと遠景に光る渡り鳥。そして連弾の2人と聖樹を映すピアノ。つまり2作品ともに、まばゆい光線の溢れる光景である。
聞くところによると作者は、15年ほど教師についてピアノのレッスンを続けているとのこと。それを踏まえて2作品を再読すると、実体験のリアルな強さが伝わってくるのである。
韻律を基底とする俳句の表現に、リズム感は必須である。その意味でも楽譜を読むことと俳句を詠む行為とには、いくつもの共通項があり、つねに句づくりを補強してきたのかも知れない。
最後に、強く惹かれた1句を抽出しておきたい。
鳥帰る嘶きそうな巨樹一本
この巨木はいったいどんな嘶きを放つのか。考えただけでも楽しくなる秀句である。そう思いつつ、自己の俳句を樹木に喩えた作者の願望を、象徴する巨樹とも思えてくるのである。
さて、作品を通して作者の全貌を伝えようと思ったが、今一つだったかも知れない。
このたびの作者の受賞は、小集団の同人誌「地祷圏」の4人目の年度作品賞受賞である。作者の努力はもちろんだが、仲間たちとの切磋琢磨の結果を一同で喜びつつ、前述した作者の俳句の樹木が、さらに嘶く巨木になって欲しいと念じている。