高橋修宏
『暗闇の眼玉 鈴木六林男を巡る』を巡って
雨の中の涙のように
── 小野十三郎賞受賞讃 ──

👤柳生正名

暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり
            鈴木六林男

第27回小野十三郎賞の詩評論書部門で高橋修宏『暗闇の眼玉 鈴木六林男を巡る』(ふらんす堂)の受賞が決まった。
表紙には巨大な気球と化した眼玉が上方を凝視するルドン作のリトグラフが掲げられる。
その先に永遠、さもなくば「天上の燕子花」を見出したかのように。

本書を貫く問いは、自ら師事した六林男が「現代の(戦後の)俳句にとって、如何なる存在であったのか」に尽きる。
それを「戦争俳句」という範疇で語ろうとするとはみ出てしまう。
むしろ、その〈余剰〉や〈異和〉を「六林男自身の句作行為の単独性として取り出してみること」によってのみ応えられるものだと論じる。

その単独性の最たるものとして本書が提示するのが「まなざし」だ。
タイトルともなった「暗闇の眼玉」しかり、〈射たれたりおれに見られておれの骨〉〈寒鯉や見られてしまい発狂す〉〈オイディプスの眼玉がここに煮こごれる〉〈視つめられ二十世紀の腐りゆく〉など、昨今の現代俳句には稀な重厚な語の連なりのうちに対象を見ることの「暴力性」が語られ、自らの戦場体験を「己れの肉体に刻まれた戦傷以上に逃れようのない傷」としてのまなざしに託した六林男俳句の本質を浮き彫りにする。

表現論からすれば、「見る」存在がまた「見られる」対象という把握を通じ、「〈写生〉という方法の中に、その特権的な眼差しを切断する劇薬を仕掛けた」。
写生の「己が見た対象のみを描く」という自我中心主義(エゴイズム)を脱却し、素材主義をも乗り越えた真のリアリズムとして現代性に達する―六林男俳句の根源がここに明かされる。

本書を読み、ここに掲げた諸句を読み返す中、筆者の脳裏をよぎったのはSF映画「ブレードランナー」の大団円。
人類への假乱を策した人造人間(レプリカント)ロイ・バッティが死に臨み、こう漏らす。
「人間には信じられないものを俺は見てきた。オリオン座の肩で燃える宇宙戦艦。タンホイザーゲイトのそばで暗闇に瞬くCビーム、そんな記憶も時と共にやがて消える。雨の中の涙のように」

本書では「人間には何か最後まで活動をやめない視力があって、世界と自分の有様を見つづけている」という井口時男の言も引かれる。
戦場という極限状態でただ「見る」こととその記憶。
それこそが俳句という脆弱な表現形式に許された「最後にすがる生への意志」の拠り所かもしれない。
それは雨では決して流し尽くせない涙の存在も実感させる。
ならば、その一粒一粒として六林男句を読み継ぐことも可能―本書はそう教えてくれる。