第26回現代俳句協会年度作品賞
【一 句 評】
👤辻村麻乃
かぶと虫かさりと父の戻る夜
なつはづき「朱夏」
一読して不思議な句であり、印象に残った。
「かさり」というオノマトペが上五の「かぶと虫」と「父の戻る夜」双方に相掛けとなっているとも読める。
「かぶと虫かさりと」「かさりと父の戻る」それらの「ka」音のリフレインが生物を無機質に変容させ、夜という時間に集約されてゆく。
かぶと虫は夜中に動くので飼っていると気になってしまう。
皆が寝静まった静かな時間帯だからこそ音に敏感になる。
耳敏くなっている作者がそのほんの少しの音から父親の遅い帰宅に気づく。
そこに半分眠りにつきながら考える作者の確かな存在がある。
父親が音を立てないように室内に入ってくるのだが、コンビニの袋なのか音がする。
かぶと虫と父はイコールではないが、作者の脳裏でこの夜だけは記憶として繋がっている。
モノクロ映画のような読み心地がある。
👤森須蘭(もりすらん)
兎飼う心が尖らないように
水口圭子「消えるため」
心が尖る理由は色々あるだろう。
例えば、誰かに裏切られて腹が立ったり悲しくなったり。
兎を飼うと、そのふわっとした柔らかさに若干心がホッとする。
確かに猫と生活していると、「オキシトシン(幸せホルモン)」を頂ける事も多々。
犬もそうだろう。
病んだ時、元気が無い時、彼ら彼女らは、そっと寄り添って心配してくれる。
ただその反面、彼らは自己主張もする。
「おかあさん(ウチの猫たちは、私をおかあさんだと思っている)、お腹が空いた」「おかあさん、抱っこ」などなど。
では、兎は?
兎ってそんなに自己主張をしない動物のように思える。
子どもの頃、兎の世話をしたことがあった。
何とも表情の無い、感情表現のない動物だなあと、世話をしていて、空しさを覚えたものである。
ただ、ここでは、「心が尖らないよう」に飼うのである。
感情の起伏はふわっと受け止めて、流すのである。
そんな「心の兎」に、作者の言いようのない寂しさを感じてしまう。
👤羽村美和子
消えるため人の世に来る雪螢
水口圭子「消えるため」
〈消えるため人の世に来る〉という措辞にまず心を掴まれる。
見るからに儚げな〈雪螢〉は、雄には口がなく、寿命は1週間、雌も卵を産むと死んでしまうそうだ。
吉野弘の「I was born」という詩を思い出す。
詩によると、蜉蝣は生まれて2、3日で死ぬ。雌の口は退化しており、胃を開いても空気ばかりだが、卵だけは腹の中にぎっしり充満している。
―それはまるで めまぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているよう―と詩は続く。
〈雪螢〉も蜉蝣も人間の寿命を考えると比べものにならない。
しかし生死に意志はなく、すべての生き物は生かされているということに辿り着く。
〈消えるため人の世に来る〉はまさに〈生き死にの悲しみ〉、すべての生き物が持つ悲しみであり、無常観にも繋がる。
小さな〈雪螢〉から、全ての生き物の生死に思いを馳せさせる、水口圭子の俳句力の素晴らしさに感動する。
👤津久井紀代
心太ぼんやり傷ついています
なつはづき「朱夏」
この作家の特徴は季語を自由に操ることが出来るところにある。
深入りすると季語イコールはづきなのである。
はづきが抱えている哀しみや怒りなどを季語の力を借りて表現しているところに唯一無二の作家魂がある。
言葉は平明。
いまの抱えているものをあらわすのに辞書はいらないのである。
さらに言えば季語と言葉との間にはづきの膨大な人生が込められていることを見逃したくはない。
「ぼんやり傷ついています」がそれにあたる。
心太は天草を干したもので無色透明。
つるっとした食感でのど越しがさっぱりしていて夏に涼を求めていただく。
まるで雲のようで、つかみどころがないのが特徴。
ぼんやりではあるが心太も傷ついているのである。
👤加藤右馬
空耳は泣く声ばかり著莪の花
なつはづき「朱夏」
フレーズの詩性が目を引く。
「気のせい」であるはずの空耳に「泣く声」が満ちている。
著莪の花の不思議な佇まいが、見知らぬ誰かの「泣く声」を作中主体の知覚まで昇華しているように感じられる。
著莪の花は花弁の形状に特徴があり、日中を越すと閉じてしまう。
宇宙的な魅力を湛えながら、非常に繊細な花である。
下五に「著莪の花」が置かれたことで「空耳」が奇妙な現実感を帯び始める。
これは本当に「気のせい」なのか。
誰かが苦しみ、啜り泣いているようにも思えてくる。
もしくは作中主体の心の、声無き叫びなのかもしれない。
心象を端的に言い表した上五中七フレーズも然ることながら、儚げな季語の付け合わせによって一句の世界観が確かなものになっている。
夢うつつに誘いつつ、情念の奈落の中で感覚器官を研ぎ澄ませる仕立ては、どこか泉鏡花作品の物語構成にも通じるものを感じる。
初句にこれが置かれれば、読み手は連作に引き込まれざるを得ない。
👤中井洋子
ぶらんこの有ったところの水たまり
水口圭子「消えるため」
街の公園に楠の樹が1本どんとあって、その下にはすべり台があり降り口が砂場に入り込むようになっていた。
子供たちの遊び場として半世紀余り親しまれたが、近年、様変わりをし砂場とベンチが数個置かれてすべり台の跡形は無い。
年年ここにやって来た子供たちはどこに行ったのだろう。
ぶらんこには、幼児から大人に至るまでいろいろな場面の思い出があり、時間と空間が交差して郷愁を誘う遊具である。
事情によりぶらんこは撤去され、その跡としての水たまりが点点とある。
それは大きく漕いだぶらんこの揺れを一気に止めるのに靴底が幾たびも磨り減らした地面の窪み。
そこに出来た水たまりだが、空の一片さえ映していない水面に暗澹とする。
その心は、少子化という社会問題をあらためて意識した瞬間なのだ。
ぶらんこ=郷愁というおおかたの概念を超えて、ありふれた″水たまり ″に今日的な視線を注いでいる作者。
平易な詠み振りがじわじわと読者を共鳴させる。
👤宮崎斗士
ぶらんこの有ったところの水たまり
水口圭子「消えるため」
上五「ぶらんこ」と下五「水たまり」の繋がりをいろいろと考えているうちに、いたく印象深い一句になった。
私の句に「青空ありぶらんこという窓口あり」というのがあるが、まさにぶらんこというもの、広大な空とのあらためての交歓に持って来いの乗り物と思われる。
数多の人間たちを空と対面させ、交流させるために従事してきた一基のぶらんこ
そしてそれが撤去されたあとに一つの水たまりができ、今は静かに空を映している……。
動と静の違いはあれど、天と地の交歓はその一箇所にてずっと続いているのだ。
一読シンプルな写生句とも思える作品だが、かなりの物語性、詩性を秘めている。
「消えるため」三十句、他にも、
葉桜や懺悔にちょうど良い暗さ
大仏のはらわたの無き涼しさよ
吊革の雫のかたち晩夏光
鳥帰る嘶きそうな巨樹一本
など心惹かれた。
「嘶きそうな」とまで言ってすこぶる斬新。
👤杉本青三郎
天と地の別れるはやさ夏あかつき
水口圭子「消えるため」
この作品から想起されるのは「白鳥を容れ閉ぢ合はす空と海」(正木ゆう子)である。
この「白鳥」の句からは、一日の終りと言おうか物語の巻末や終焉や一日の働き疲れといったイメージを促すものがある。
これに対して、掲題の「天と地」の句からは、新しい一日の始まりを、たえまない一日の活動の開始を、そして「はやさ」から、素早い夜から朝への切り替えを思う。
しかしながら、早朝の慌ただしい時間の中で、日常のこなさなければならないことをこなしながら、時々思い出したように、窓から風景を見るのである。
だからこそ、いやおうにも「はやさ」を感じてしまっている気がしてならない。
そして、この後は、夏の一日の日盛りの中へと打って出る戦いが、待ち受けているのであろう。