物を捨てる
👤柏柳明子

物を捨てることにためらいがない性格である。
身の回りの家具や電化製品は言うに及ばず、対象が本であっても同様だ。
それまで愛着があったものでも「もう、いろいろと得たからいいや」と思った瞬間、ビニール紐で括り始める(あるいは古書店にもっていく)。
対照的に、家人は物を捨てることができない性格である。
動きがアヤしくなった機器や不要な書類まで、自室にいろいろと溜めている。
自分のだけならいざしらず、私の不要品も「もらう」と言う。
動かなくなったパソコンを引き取るのは、まだわかる。
中の部品等が再利用できるかもしれないからだ。
でも、何だかよくわからない螺子やもう使い切った(と思われる)乾電池なども「ちょうだい」と言うのである。
螺子はどこかで使えるかもしれないし、乾電池は残量メーターで測定してから処分するというのが理由。
君はあれか、その螺子で今後何か作る予定でもあるのか?
そして残量メーターって何なの、てかそんなのあるんだ?
こちらからすると家人のリアクションはいちいち想定外で、人間とはつくづく違うイキモノなのだと知る日々である。
そんな家人でも、どうしようもなくなった物はさすがに捨てる。
だが、すぐには捨てない。
その前に必ず写真を撮るのだ。
理由を聞くと「このまま処分するのは何となく忍びなくて」だそう。
しかも、私の処分品も写真に撮る。
なぜ、捨てる物をわざわざ写真に撮るんだ?
しかも他人の分まで。
私の物は無関係で愛着なんてないだろうに。
しかし考えてみれば、日本には古来より「九十九神(付喪神)」の信仰と精神がある。
だとすると、家人の撮影は日本人の深層意識の体現なのかもしれない。
あるいは、一種の供養の儀式およびそれにまつわる精神のあらわれか。
何とも不思議だ。
さて、先日。
わが家でもっとも大きな物を処分することになった。
結婚前から家人が乗っていた車だ。
家人はその車に名前を付けており、自然と私もその名で呼ぶようになった。
好きな人にとっては愛車に名前をつけるのは自然な行為なのだろうが、関心の薄い私には新鮮な驚きだった。
その車も修理を重ねながら走り続けて16年。
いよいよお別れの日が来た。
自動車販売店には新車が待機していた。
私たちは細かい傷が光る先代の車体を静かに撫でた。
そして、私は初めて捨てる物(車)の写真を撮った。
「名前があると物を手放すときの気持ちが全然違う」と思ったとき、「じゃあね」と呟いていた。
猛暑の青空がきれいな午後だった。
そんな私たちは俳句を作る者同士だが、俳句に関しては家人のほうが発想や執着を手放すことに長けており、反対に私はぎりぎりまで捨てることを迷うタイプだ。
対象が変わるだけで、「捨てる」ことへの態度がこうも違うとは。
やはり人間はそれぞれ違うイキモノ、学習の日々はまだまだ続きそうである。
粗大ごみシールの捲れ鱗雲
明子
柏柳明子(かしわやなぎ・あきこ)
1972年生まれ、神奈川県横浜市出身
「炎環」同人、「豆の木」参加、現代俳句協会会員
第30回現代俳句新人賞、第18回炎環賞
句集『揮発』『柔き棘』