象徴の息づく土壌―アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』
👤小田島渚
アーサー・シモンズ(1865–1945)の『象徴主義の文学運動』(1899)は、十九世紀末の西欧の文学状況を鮮やかに照射した批評書である。
ここに登場するのは、バルザック、フロベール、ボードレール、リラダン、ヴェルレーヌ、ランボー、メーテルランクなど、十九世紀を代表する象徴主義の作家や詩人たちだ。
刊行当時、彼らの多くはすでに世を去っていたが、まだ遠い過去の存在ではなかった。
したがって、シモンズの批評は、後世の研究の果実ではなく、その果実を育む生々しい土壌の上に立っている。
批評の鋭さだけでなく、作品への感動に突き動かされた言葉そのものの情熱が、頁ごとにほとばしっている。
シモンズはイギリスの詩人であり、翻訳家であり、批評家であった。
同い年の友人W.B.イェイツに序言を捧げ、イェイツとともに芸術家のサロン「ライマーズ・クラブ」にも参加している。
オスカー・ワイルドの『サロメ』で知られる画家ビアズリーとも親交を結び、共に雑誌『サヴォイ』を創刊するなど、編集者の一面も持ち、芸術運動の中に身を置いていた人物である。
本書をT.S.エリオットがハーヴァード大学の図書館で手に取り、ジュール・ラフォルグを知ったという逸話は有名である。
もし彼がこの本ではなく別の評論書を読んでいたなら、後の『J・アルフレッド・プルーフロックの恋の歌』も『荒地』も生まれなかったというのはいささか言い過ぎかもしれないが、しかし、シモンズの筆致には、詩人が詩人を呼び覚ますような力が宿っている。
ラフォルグ論の章で、シモンズはその作品から滲む特異な笑いをこう書く。
メーテルランクがいみじくも『魂の笑い』と定義したラフォルグの笑いはピエロの笑いであり、ほとんどがすすり泣きに近い笑いであり、細い腕を広げて哀れな格好をして体を揺すって絞り出す笑いである。
彼は形而上的なピエロ、〈月のピエロ〉であって、抽象概念や無意識に関するすべての知識を、彼はピエロよろしく早口でまくしたてるのだ。
修辞の豊かさは詩人シモンズの真骨頂であり、凡庸な語彙を避けながらも冗長に陥らない。
彼にしか感知し得ない表現者の本質がつぶさに記されている。
また同じ章には「異様な操り人形を魂の転位というほとんど日本的な技法をもって創り出したのである。」と日本への言及もあり、見識の広さが窺われる。
当初「国内外で最も頭の切れる批評家の一人」と評されたのも頷ける。
日本での象徴主義の受容を顧みれば、詩歌の状況はすでに変化の只中にあった。七五調の『新体詩抄』(1882)に続き、上田敏訳『海潮音』(1905)が刊行され、ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌらが紹介された。シモンズの本も岩野泡鳴訳『表象派の文学運動』(1913)として日本に紹介され、北原白秋、萩原朔太郎、蒲原有明、三木露風らに影響を与えている。
佐道直身氏の論文「日本における象徴主義の概念」では、シモンズの記述にも触れつつ、日本の詩人たちが象徴主義をどのように受けとめたかが詳しく論じられている。
佐道氏によれば、萩原は象徴主義の本質を正確に理解していたにもかかわらず、当時の国粋主義的な風潮の中で、西欧の象徴主義をむしろ日本より遅れているものとして否定的に捉える傾向があったという。
そして、蒲原は〈海くれて鴨のこゑほのかに白し〉を、萩原は〈秋深き隣は何をする人ぞ〉を引き、象徴の根拠を芭蕉の俳句に求めていた。
佐道氏はその考えを次のようにまとめている。
――西欧文明はもともと「説明的」な性格を持ち、その説明過多への反発として象徴主義が生まれた。
これに対し、日本文化は古来より「象徴的」な文明を営んできた。
近代になって初めて、西欧の「説明的文明」を輸入したにすぎない。
したがって、日本における近代西欧の象徴主義は模倣的な“焼き付けば”であり、むしろ『万葉集』こそが真の象徴主義の精神を体現している――
というのである。
俳句の象徴性といえば、中村草田男や富沢赤黄男などが思い浮かぶが、大正時代の詩人たちにとっては、芭蕉の句こそ象徴の源泉であり、象徴主義の母胎と考えられていたことが興味深い。
俳句の極限の短さが生み出す言葉の作用は、象徴主義が目指した現実の向こう側への志向と響き合う。
暗喩を通して世界の奥行きを照らすその感覚は、象徴主義の精神と通底している。
佐道氏が指摘するように、象徴主義の概念は「神秘的世界観と文学的手法の間を揺れ動く」ものであり、一義的に定まらない。
産業革命以後の近代社会に生きる人間の精神が希求した表現形式であり、暗喩によって不可視の世界を開く試みだったといえよう。
その精神は、現代俳句にも確かに息づいている。
例えば次の句を読むとき、私たちはそれぞれの内なる象徴に触れるのではないだろうか。
切株は蹄のやうに冷えてをり
             若林哲哉
御代の春ぐるりの闇が歯を鳴らし
             高山れおな
寒鯉の口々に波起こしたる
             中西亮太
鳥よりも高きに棲むをと朧という
             月野ぽぽな
これらの句は必ずしも象徴主義の文脈で詠まれたものではない。
それでも、言葉の表層を超えて世界を感じ取ろうとする――
その営みの底に、詩の永遠の呼吸がある。
その呼吸の深みに、象徴主義の光が脈打ち、一句の沈黙の奥でかすかに揺れている。〔完訳〕『象徴主義の文学運動』/アーサー・シモンズ/山形和美訳/初版2006年/平凡社ライブラリー
