丹敷戸畔(にしきとべ)
👤谷口智行(運河)
火焰茸戸畔の経血かもしれず
谷口智行
小誌「運河」(令和7年2月号)にこんな句を投じたところ、俳句仲間から「戸畔とは何ぞや?」という質問を受けた。
ここでの「戸畔(とべ)」とは、熊野の女首長「丹敷戸畔(にしきとべ)」のことである。
天つ神ではない。
国つ神である。
『日本書紀』巻第三・神武東征の条には、こう記されている。
天皇独(ひとり)、皇子手研耳命(みこたぎしみみのみこと)と、軍を師(ひき)ゐて進みて、熊野の荒坂津(あらさかづ)亦の名は丹敷浦(にしきうら)に至ります。因りて丹敷戸畔といふものを誅す。時に神、毒気を吐きて、人物(ひと)咸(ことごと)に瘁(を)えぬ。是に由りて、皇軍(みいくさ)復振(またおこ)ること能はず
神武は丹敷浦で丹敷戸畔を殺し、その時、「神」(丹敷戸畔のこと)が毒気を吐いて人々を萎えさせ、皇軍は振るわなかったと記されている。
記述はこれのみ。
丹敷戸畔は登場したと思えば、すぐに誅され、他の文献史料もなく実態は不明。
謎の人物である。
ちなみに『古事記』には、
熊野村に到りましし時、大熊髣(ほのか)に出で入りて即ち失せぬ
と記されるのみで、「丹敷戸畔」の名すら出てこず、「大きな熊(かみ)」とだけ記されている。
表記については、「丹」は辰砂、つまり硫化水銀のこと、「敷」は豊富に産出する鉱脈、よって水銀の鉱山を統治する古代豪族(土豪)の女酋長ということになる。
紀伊半島にはさまざまな鉱山があり、古代からさまざまな金属が取り出されて利用されてきた。
和歌山県白浜町の鉛山(かなやま)鉱山、那智勝浦町の妙法(みょうほう)鉱山の金や銅、日高川町の和佐(わさ)水銀鉱山の辰砂、奈良から三重県伊勢にかけての辰砂などである。
「戸畔(とべ)」という言葉にも諸説ある。
「刀自(戸主)」から戸口を支配する者、一家の女首長「戸女(とめ)」が転訛した説、「姥(とめ)」を由来とする説、アイヌ語で乳を意味する「トペ」が女性の族長を示す言葉となり、そこから「トベ」に訛ったとする説などである。
さて、神武軍は長兄五瀬命(いつせのみこと)の遺体を和歌山市の竈山(かまやま)に葬った後、近くの名草邑(なくさのむら)で名草戸畔(なくさとべ)と戦って殺す。
そこから軍船で紀伊半島を回り込み、「狭野(さの)」(新宮市佐野と比定)を越え、熊野の「神の村」(神邑(みわのむら)、新宮市三輪崎と比定)に至り、「天磐盾(あめのいわたて)」(新宮市神倉山(かみくらさん)と比定)に登った。
天磐盾とはこの山の中腹に鎮座する「ゴトビキ岩」のことだと解説したものが多いが、この岩はずんぐりとしたヒキガエル(=ゴトビキ)の姿をしており、盾の形はしていない。
この山の西麓にある大きな一枚岩の絶壁こそ天磐盾だと、僕は信じている。
一行はここから船に乗り、海路をとるが、暴風に遭い、稲飯命(いないいのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)の二兄は水死する。
新宮市王子神社(浜王子跡)では、この二神を主祭神として祀っている。
氏神は皇兄二人初詣
中村敏之
神武はさらに船軍を進め、熊野の「荒坂津(あらさかのづ)」(丹敷浦)に上陸。皇軍を迎え撃つ丹敷戸畔たちとの間で、血で血を洗う壮絶な戦いが繰り広げられた。
冒頭に述べた通り、彼女はここで誅される。
熊野にはいくつかの丹敷戸畔ゆかりの地がある。文献資料の無い中、土地に残された以下の故事に基づき、その実像に迫っていただきたい。
■新宮市王子ヶ浜の御手洗(みたらい)海岸
神武が戸畔を討った際、返り血や手に付いた血をこの浜の海水で洗ったという。
かつてここで多くの自殺者が出たので、地元の子供たちは親からこの付近に近づかないように言われていた。
■新宮‐三輪崎間の熊野古道「高野坂(こうやざか)」
この坂の中ほどに「おな神の森」がある。ここが戸畔の本拠地であったという説がある。
海沿いにある森は昼も小暗く、海上からは見つけ難い所にある。
太平洋が一望でき、外敵を見張るには絶好の場所。
「おな神」の謂れは不明。
「女神(おんながみ)」説、琉球の「妹神(おなりかみ)」信仰(田植や航海の神)の伝播説、見晴らしの良い場所「お眺め」からの転訛説もある。
またこの森の一角に、古層の神ではないが、「金光稲荷(きんこういなり)神社」が鎮座するが、ここには祭祀ができる広さの斎庭もあり、「金光」の字の通り、海からの朝日を迎えることもできる地であることから、丹敷戸畔ゆかりの地ではないかと推察。
■熊野列石
野面積みの石垣遺構で、一般には「猪垣」と目されている。
先述の「御手洗海岸」や「高野坂」を起点にして、熊野山中に全長は何と、約百四十㎞もの長さで築かれている。
また神武の進軍行路である「玉置山(たまきさん)」に繫がるともされ、中国の万里の長城的な軍事要塞の痕跡の可能性を秘めている。
あるいは何らかの祭祀跡か。熊野のミステリーの一つ。
(拙著『日の乱舞/物語の闇』「熊野列石」参照)
■新宮市三輪崎
日本書紀に記述された「神邑(みわむら)」(先述)を三輪の語源と捉え、昭和四十五年に有志がここに「荒坂津神社」を創建した。
国道沿いに大きな看板があるが、地元の人間はあまり関心を向けていないようだ。
■那智勝浦町の狗子ノ川(くじのかわ)近くの「赤色(あかいろ)」
狗子ノ川、赤色はともに地名である。
誅殺された戸畔の血が流れ、海まで赤く染まったという「赤色海岸」がある。
バス停は現在も赤く塗られ、「あかいろ海岸」と書かれている。
血の色の名のバス停よ秋桜
敏之
血の海のはるけき謂れ寒の雨
智行
■那智勝浦町下里(しもさと)の「下里古墳」
本州では最南端に位置する前方後円墳である。
四世紀後半に造られ、この地に権力を持った豪族が暮らしていたことを示すが、これこそが戸畔の墓所ではないかという説もある。
■那智の浜近くの熊野三所大神社
この神社の摂社「浜の宮王子社跡」に、戸畔を地主神とした祠がひっそりと祀られている。
■串本町二色(にしき)の墓標
和歌山県東牟婁郡串本町二色に丹敷戸畔のものとされる墓標がある。
二色は「丹敷」の転訛か。
串本町袋港(ふくろこう)の東側に「トベの森」という小山があり、この頂に戸畔の墓と伝わる小さな石塔が建てられている。
墓標には今も無数の珊瑚が敷き詰められているが、その理由は分からない。
近くに「戸畔(とはた)」という地名がある。
一意ただ戸畔の気息をもとめ冬
智行
外つ神よ国つ神よと悴める
智行
■三重県熊野市二木島(にぎしま)の地名「荒坂(あらさか)」
神武の二皇兄(先述)をそれぞれ祀る「室古(むろこ)神社」と「阿古師(あこし)神社」がある。
本居宣長の考証によれば、ニキシマがニシキに転訛したとも。
(拙著『熊野概論』「室古と阿古師」参照)
■三重県度会郡大紀町の「錦」(地名)
ここに「錦湾」という港があり、「丹敷」の転訛と看做されている。
以上、丹敷戸畔に関する伝承は熊野の広範囲に遺されているため、戸畔の複数説もある。
いずれにせよ、何らかのそうした人物が存在していたことは確かなようだ。
歌人で小説家の長塚節は、
「那智の山をわけて瀧の上にいたりみるに谷ふかくして、はろかに熊野の海をのぞむ」と前詞を添え、次の歌を詠んでいる。
丹敷戸畔丹敷の浦はいさなとる船も泛ばず浪のよる見ゆ
『長塚節歌集 上』明治31年