現代俳句2025年8月号「百景共吟」写真提供:飯塚英夫

「百景共吟」より2句鑑賞

👤永井江美子

白雲より大鷲降りて無音
             マブソン青眼

ふわふわの白い雲から雲よりも白い大鷺が降りて来る。
その美しさに目を奪われている私に、暫しの空白の時があり、そこへ「無音」という言葉が畳み込まれてくる。

一見実景描写のようであるが、実景だけではない。
決して循環することのない五・七・三という俳句形式により、舞い降りた大鷺の情緒がここで断ち切られ、しんとした音の無い〈詩の生まれる場〉を獲得したのである。
大鷺に対しては一個の他者である作者は、独特の形式により沈黙を語り始める大鷺となり、音を超える音の世界に鎮座するのである。
無とは単純に「ない」ではなく、超えてゆくものと思うと、より深く味わうことの出来た一句である。

遠泳のひとを待てずに老いてゆく
             土井探花

泳げない私を残して、その人は遥か沖まで泳いで行ってしまった。
いつか帰って来るだろうといつまでも浜辺で待ち続けたが、ついにその人は帰って来ず、私は一人老いてしまった。
その人は今も泳ぎ続けているのだろうか?

夢とも現ともつかない遠い遠い昔の私の話と同化させてしまったが、作者はこの句の内部になにを創造しようと願ったのだろう。
遠泳は季語ではあるが、そんな些末なことではなく、もちろん物語を詠もうとしたのでも無い。
自身の観念を無化し、のような「遠泳」という言葉を透視しながら、老いてゆくものの、どうしようもない哀しみを托したのだろう。
待つことと老いること、それが生きてゆく祈りであるというように。