特集
「昭和百年/戦後八十年 今 現代俳句とは何か」
口語句の「た」止めをめぐって
👤柳生正名
当誌では「今、現代俳句とは何か」という通年テーマに沿い、副会長・理事ら25人を対象にアンケートを実施した。
調査時期は本年3〜4月、回答率100%だった。
繰り返しになるが、「私が推す『現代俳句』5人5句選」という問いに対し、全員が5句を選び、重複を考慮すると105句が挙がった。
うち2人以上から推された句は10句あり、最高点4で5句が並んだ。
蝶墜ちて大音響の結氷期
富澤赤黄男
頭の中で白い夏野となつてゐる
高屋窓秋
戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡邊白泉
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
金子兜太
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
池田澄子
3点句はなく、2点句として続いたのが次の5五句。
広島や卵食ふ時口ひらく
西東三鬼
雲秋意琴を売らんと横抱きに
中島斌雄
銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく
金子兜太
八月の赤子はいまも宙を蹴る
宇多喜代子
地下鉄にかすかな峠ありて夏至
正木ゆう子
現俳ウエブ8月号に掲載した「5人5句選 高点句の文体をめぐって」と題する一文で、最高点句5句の文体がすべて口語体である点を指摘した。
👆関連ページ
WEB現代俳句2025年8月号
5人5句選 高点句の文体をめぐって
さらにこのアンケートで参加者は基本的に「俳句の『来るべきもの』のイメージを心の片隅に思い浮かべながら回答しただろう」とも記した。
20年後の戦後100年、その2年後の現代俳句協会設立100年という節目を念頭に置いて、口語化の流れがますます強まるという俳句の未来像を示唆したことになる。
これはひとつの予想で、異論があって当然だ。
実際、今回の次点5句については文語体が多数を占め、俳句から文語表現がなくなることは考えられない。
ただ今、俳句について過去のみならず、未来への展望を語ることが何よりも求められている。
そうした認識から問題提起を行うことが本稿の意図である。
◆俳句口語化で受け継がれるもの
口語化進展が大きな流れと仮定した場合、俳句にとって本質的とされてきたものがどう受け継がれ、捨て去られるかが問題となる。
「定型」や「季語・季題」は、従来の実績から判断し、口語俳句に受け継がれていくことに障害はなさそうだ。
今回の最高点5句がいずれも定型に沿い(窓秋句の「頭」の読み方にもよるが)、白泉句以外は有季と解し得る点からも納得できる。
口語句には無季や破調のイメージが強いが、原理的に有季定型とも矛盾しない。
事情が変わるのは「切字」である。
主要三切字とされる「や」「かな」「けり」はいずれも文語に属する語彙だ。
子規も虚子も「切字」を俳句にとって主要な要素としたが、実はさほど踏み込んだ議論はしていない。
それを引き継ぐ形で、現在の俳句界では虚子派も反虚子派も切字を重視してきたとは言い難い。
その結果だろうか、口語で「切字」と認定される語は現状で筆者の知る限り存在しない。
口語文体が今後、主流化すると仮定した場合、切字は俳句に必須の存在でなくなり、消え去る未来さえ浮かび上がる。
◆「た」止めの存在感
ここで注目したいのは、最高点五句の終わり方である。
赤黄男が体言止め、白泉、兜太句は動詞の終止形止めというのが通常の理解だが、白泉、澄子句は口語の助動詞「た」止め(澄子句は終助詞「の」が付くが)である。
そもそも日本語は用言で一文を終える場合、原則的に終止形を用いる。
一方、明治期の言文一致運動の結果、小説などの散文の描写的文体では「た」止めが標準的な語り口となっている。
写生俳句の場合、現前する対象をそのまま映す形でその瞬間を切り取ることを求められ、現在の時制を意味する用言の終止形で止めることが自然ともいえる。
一方、口語調を積極的に取り入れた自由律俳句や新興俳句では戦前から「た」止め句がみられ、今回、最高点となった白泉句はその一例だ。
ただ、その後も令和に至るまで文語体が多数派を占めてきた俳句では「た」止めが多用されてきたとはいえない。
その中で、最高点5句中の2句を占めたことは特筆に値する。今回、1点以上の選に入った105句には、さらに2句の「た」止めが見出せる。
おおかみに螢が一つ付いていた
金子兜太
ピーマン切って中を明るくしてあげた
池田澄子
今回は5句選×25人で計125点が各句に割り振られたことになるが、そのうちの10点は「た」止めの句が獲得した計算だ。
そこには、解釈の仕方にもよるが、必ずしも過去の時制に捉われず、いま現前する景と解した方がしっくりくる句も含まれる。
この点は〈帚木に影といふものありにけり 虚子〉を眼前の景の描写と解する読みが自然であることとつながる。
◆口語の切字という論点
ちなみに今回、「推し」の対象となった105句のうち、三大切字を用いた句はどれだけあったか。
「や」は〈広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼〉など8句9点。
「かな」は〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 正岡子規〉など4句4点。
「けり」は〈雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸邨〉で4句4点だった。
〈降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男〉には「や」と「けり」が重複しており、総計15句17点となる。
現代俳句を代表する作として挙げられた中で句数の占有率14%が多いのか、少ないのか?
議論はあろうが、一定の存在感を保っている事実は否定できない。
現代俳句においても切字は決して無視できる存在ではないということだ。
その上で、「た」止めが句数で「かな」「けり」と並び、点数で「や」を上回ったこともまた軽視できない。
というのも「た」には本来、過去を意味する文語の助動詞が切字に展開した「けり」と重なる語としての重みがあるからである。
現在の俳句は連句における発句のように後に続く付句を前提とした存在ではない。
その最短詩形はより大きなものの断片ではなく、ひとつの世界を単独で形成し、それが句末で完結することを存在の本質とする。
その意味で、止め方は俳句にとって最重要の問題であり続け、それ故に切字という概念が重んぜられた。
「切字」はそもそも連歌・連句で付句とは全く異なる発句の在り方を明確にする意図から論じられたものだろうが、最初から明確なものとしてあったわけではないはずだ。
実作を積み重ねていく過程で、発句の終わり方に一定の型があることが意識され、次第にひとつの概念として浮かび上がった。
そのように概念化されると技法として意識され、ますます積極的に用いられるようになる。
その意味で、口語体の切字について、これまで論じられたことがなかったにせよ、実作の積み上げの中でひとつの明確な存在として結実するということがあってよいのではないだろうか。
もし俳句が単なる過去の伝承・再現の文芸でなく、たえず生成し成長し続けている生きた文芸だとすれば、日本語やその基底を成す文明の変化、発展に伴って新たな「切字」が誕生し、成長する過程を目の当たりにすることは文化のダイナミズムを実感する貴重な体験となるはずだ。
今、戦後と現代俳句協会設立100年に向けた俳句の来るべき姿を展望するとき、あらたな「切字」創出の是非という問題は論点とするにふさわしいと考える。
平成・令和と「俳句・俳論の無風」が指摘される現状では、三協会が積極的に共同し論ずべきテーマではないか。
この場に「た」が口語の切字であると断言するだけの材料がそろったわけではない。
ただ「現代俳句」の価値を信じる以上、確たる議論なしでの「切字が過去の伝承通りのものに限られ、新たに生みだす生命力を今の俳句は持ち合わせない」というペシミズムへの埋没は甘受できず、またすべきでもないと感じる。
ちなみに昭和初期に編まれた『ホトトギス雑詠選集(虚子選)昭和』篇には次の一句が掲載されている。
東京駅大時計に似た月が出た
池内友次郎
虚子の俳句の未来を見通すまなざしの深さを実感させるエピソードではないだろうか。