第45回現代俳句評論賞 佳作
朦朧体の俳句
── 鴇田智哉論 ──
👤木村和也
はじめに
言葉とはもともと、その言葉の指し示す概念が人々に共有されることでその役割を果たしてきた。「花を買って帰る」と言えば、どんな花であるかは別にして、われわれはさまざまな花の姿を思い浮かべて食卓を用意するだろう。そのとき花という言葉は、二人の間に共通の概念を提供しているのだ。いわば社会化されることによって、言葉は言葉としての機能を発揮してきたのである。
一方、詩の言葉とは、常識的な共通概念としての言葉の基盤を解体する作業である。詩とは過度に社会化してしまった言葉を一度解き放って、新しい新鮮な意味付けをする作業から生まれるものなのである。それは同時に、言葉の原初の姿を取り戻す作業であるかもしれない。鴇田智哉の俳句もそのようなものとしてわれわれの前にあるように思われる。
1.もう一つの本質
ぶらんこに一人が消えて木の部分
(第一句集『こゑふたつ』2005年)
ブランコは鞦韆ともいう。かつて中国の宮廷で早春、晴れやかな着物をまとった女官たちが裳裾をなびかせて戯れ遊びをしたところから俳句では春の季題となった。春を迎えた幸福感に満ちた季語である。
鞦韆に腰かけて読む手紙かな
星野立子
鞦韆に夜も蒼き空ありにけり
安住敦
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
三橋鷹女
手元にある『現代俳句歳時記』(角川)から拾ってみた。立子の、鞦韆に腰かけてよむ手紙には好事が書かれているだろう。敦の鞦韆は、夜空の美しさを際立たせる。鷹女の鞦韆には激しい情念が仮託されている。みな鞦韆(ぶらんこ)の本意を踏まえて詠まれている。それに比べて智哉の句はどうか。
ぶらんこの春の華やかなイメージはどこにもない。ぶらんこで遊んでいた人が一人消えるところからこの句は始まる。漕ぎ手を失ったぶらんこは、ぶらんこにまつわる季節感や物語性などすべてを失って、ものそのものとしてのぶらんこが生々しく出現する。それが「木の部分」というやや稚拙ともみえる直截的な表現でとらえられているのだ。
季語は和歌や連歌以来の伝統の中からもろもろの物語性を伴ってわれわれに享受されて来た。そういった季語の歴史性はこの句では捨象されている。ここでのぶらんこは、ぶらんこというわれわれの共通の認識、情趣を拭い去って、私と、ものとの一回きりの出会いが出現しているのである。
ものには名前がある。名付けられることでわれわれは、ああこれは薔薇、これは石と理解する。理解したと思った瞬間にそれらは概念として規定されてしまい、物の本当のすがたは、するりとどこかに去って行ってしまう。実存的な真実の存在感は霧消してしまう。名付けられる以前のものの本質に直入する表現が俳句という詩をかたちづくる。智哉のぶらんこにはそのような存在感、実存が捉えられているように思われる。
智哉はこんなふうに言っている。
生えている句を作りたい、と思ってきた。草や花がそこにあるように、俳句もまたある。草や花が何かの代わりとしてそこにあるのではないように、俳句もまた何かの言いかえとしてあるのではない。草や花のひとつひとつに対して人は、美しいと感じたり、そうでないと感じたりする。つまり、その草なり花なりへの感想はいかようにも生じる。でも、それをこえて変わらないのは、その草、花がそこに、ある、生えている、ということだ。
(『エレメンツ』2020年「あとがき」)
ぶらんこの句もまた、智哉のいう「生えている俳句」の一つであるように思われる。
むかし小林秀雄は「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない。」(「當麻」)と言った。それはものを見る目の真実性を言うために、言い換えれば、たった一人の人間によって経験された偶然的な事がらのありようの貴重さを言うために、通常の言葉によって概念化することの危うさを言ったものなのである。いわば個別の具体的な一回きりの花の実在性への希求がこの言葉に集約されているのだ。智哉のぶらんこの句も、概念的な把握を越えた、一人の俳人によって経験され発見されたぶらんこがとらえられていると見ていいのである。
子規が「写生」を唱えるにあたって、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と言って古今集を否定してみせたのも、俳句の言葉を詩として屹立させるために、概念としての花を否定しようとしたものであった。
古今集に詠まれた「花」は、古来、和歌に詠まれ詩的に概念化された花だった。いわば共通の知識、情緒としての「花」であり、それが平安貴族たちに共有されて、その教養の上に歌が詠まれた。個別に体験された一回きりの生(なま)の現実の花を詠むのではなかった。こういった歴史性を根拠とする共通概念としての花を否定して、具体的個別の花を詠むのが子規のいう「写生」という方法だったのである。智哉の句もその方法につながっている。
先ほどぶらんこの句で、ものの本質的なあり方、実存がとらえられていると言った。この句から私は、サルトルの『嘔吐』の一節を連想する。
マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げ、たった独りで、まったく人の手の加わっていないこの黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。(『嘔吐』鈴木道彦訳 人文書院)
ここにはものが名付けられる以前の、圧倒的なものの存在感が主人公に嘔吐をもよおさせる様子が描かれている。この主人公はなぜ嘔吐をもよおすのか。それには、ものの本質をとらえる際の仕方が関わっている。
本質には二種類の本質があるということを『意識と本質』(井筒俊彦)で知った。自然を見て、ああ花なのだとか、ああ山なのだとか、言葉がとらえた概念によってわれわれはものを認識する。言い換えれば、われわれの現実把握は言葉による概念化によって可能となる。名前が付けられることによってそのものの本質を理解するのだ。ものを見る我々自身の存在も、その延長線上で安定する。しかしこれらは、言葉をあやつるわれわれの表層意識での作業であって、それとは別の意識の深層部によってとらえられる本質というものが在るというのだ。「言葉」が「消え失せ」る地点に、いわば名付けられ概念化される以前のものの存在が、確としてわれわれの前に出現すことがあるのだ。それは圧倒的なもう一つのものの本質である。それを言語機能をつかさどる表層意識でとらえようとすればたちまち名状しがたい不安と焦燥あるいは危機感を感じることになる。それは、存在の主体であるわれわれの生きる根拠を不分明にする。それが「嘔吐」を起こさせるというのである。
智哉のぶらんこはこれと同様のものの存在感をわれわれに感じさせる。概念をつくるコトバが脱落した世界に直面した『嘔吐』の主人公が見たものと、智哉の見たものはほとんど同じものではないか。だからこのぶらんこの句は、概念によるものの把握の仕方を否定した子規の写生の正当な後継と言ってもよいのである。
2.朦朧体の俳句
ここで注目しておきたいことが一つある。それは、ぶらんこが「木の部分」となって現れるために、「一人が消え」ることが前提となっていることである。ぶらんこに必然の人物の姿を消し去ることで、共通の概念としてのぶらんこではない、もう一つのものの本質である「木の部分」が現れる仕掛けなのである。この「消え」るは、智哉の俳句の方法を探る上での一つのキイとなる言葉だと思われる。
たてものの消えて見学団が来る
人うせてすきまの残る夏の昼
あふむけに泳げばうすれはじめたる
さはやかに人のかたちにくり抜かる
白南風の人がくぼんで見えてゐる
第二句集『凧と円柱』(2014年)にある。一句目で消えるのはたてもので、そこから見学団がたち現れてくるという逆転の構図になっている。二句目、人がうせたすきまに夏の昼が残る。三句目でうすれ始めるのは、景とも泳ぐ人ともとれるが、人物の存在感がきわめて薄い。四句目では、さわやかにくり抜かれた人型だけを言って、人物はどこかに消えてしまっている。五句目では、人の姿は輪郭をなくし、そのくぼんだ立体感だけが見えている。
これらの句で表現されているのは、通常俳句で表現される花や鳥などの現実自然の景物ではない。また、作者の心情や境涯でもない。ものを消したり、薄れさせたり、くぼませたり、それらのぼんやりとした表現によって読者に提示されるのは、人の心情やものの明確な形やイメージではなくて、それらの言葉の背後にある何ものかなのである。それらは、日常とは違った、異質なうすぼんやりとした世界へわれわれを引き入れる。
「ぶらんこ」の句では、何かを消し去ることで、ものの実存的な本質がたち現れてくるのを見た。だがこれらの句で現れてくるのは、ものの本質的なあり方ですらなく、朦朧としたわれわれの心理のなかに眠るある種の手ごたえである。その正体はわれわれの想像力にゆだねられている。
通常俳句は、目に見えるものをリアルに巧みに表現することが追求される。境涯俳句においても心情のリアルさが句の生命となる。はっきりと目に見え感得されるものが俳句表現の目指す地点となっているのである。
しかし智哉のこれらの句では、はっきりとしたものの形も心情のリアルさも目指されてはいない。すべては朦朧としてとりとめがない。そこには、直接目ではとらえられないもの、確実に意識される心情ではないものの表出が目指されている。いわばこれらの俳句は、言葉でとらえられる表層意識部分を越えて、深層の意識の層へ射程を届かせようとする試みなのである。そのために言葉はゆるやかに単純化され、ものは「消」され、克明な映像化は忌避される。私はこれを朦朧体の俳句と名付けたいと思う。
3.朦朧体の俳句が表現しようとするもの
ゆふぐれの白い畳に鯉のぼり
第一句集『こゑふたつ』にある。いわば智哉の出発点をなした一句である。言葉は平明で、難しい表現は一切ない。ただあるのは不思議な光景である。本来空にむかって揚げるべき鯉のぼりは、ここでは畳の上に置かれている。しかも日の暮れ残った「白い畳」に。まるで幽霊のようにおぼろげである。本来の季語である鯉のぼりの悠々と空を泳ぐ存在感はほとんどない。ただ畳の白さばかりが印象的である。現実の景というよりかはすこし異次元の世界に移行していく感覚がある。まさに朦朧体の文体である。例えば幼い記憶の底にしまわれていた鯉のぼりにまつわる情感が立ち上ってきて、ぼんやりと一つのメタファを形成する気配があるのだ。
それは別の言葉に明確に置き換えられるものでもなく、言葉で説明することが不可能であるがゆえに、この切り詰められた俳句という詩形をかりて表現しなければならないものなのである。十七文字の世界でしか、十七文字であることによってしか表現できない世界が俳句の追求すべき世界であるとするなら、まさに朦朧体は、そのようなものを表現するのにふさわしい一つの俳句表現の形なのかもしれない。
そもそも俳句は、その極端に短い詩形で何を表現するものなのか。
見えさうな金木犀の香なりけり
津川絵理子『和音』
まだもののかたちに雪の積もりをり
片山由美子『風待月』
現代俳句の秀吟であると思う。金木犀や雪というものの本質が見事にとらえられている。金木犀の香とはこういうものだ、雪とはこんな風に積もってゆくものだ、という季語の本意が明確な輪郭をともなって正確に把握されているのだ。
智哉の俳句は、このような方法とは全く異なっている。ものの輪郭はむしろぼやかされ、ものの実態は朦朧として手触りさえ定かではない。
前に私は井筒俊彦の論を借りて、ものの本質には二種類あると言った。言葉によって直接的に概念としてとらえられる本質と、概念把握を越えた、いわば言葉を越えた深層意識によってとらえられる本質の二種である。智哉の朦朧体の俳句は、意識表層の機能である言葉を越えて、通常の言葉でとらえられない深層意識に垂心をおろすもののように見える。
言葉での解説や批評を困難にしながらも、そこにはしかし確実にわれわれの心をとらえるものの存在が感じられる。それが智哉俳句の不思議な魅力の源泉になっているものなのである。
うすぐらいバスは鯨を食べにゆく
『凧と円柱』の「鯨」という小題の最後に一ページを使っておかれた句である。智哉の自信作であるのかもしれない。鯨を食べに行くツアーだろうか。しかしこの句では人物の姿はおぼろげで、まるでバスが鯨を食べにゆくような気配がある。「うすぐらいバス」は何かしらの後ろめたさを背負って。季語は何かなど全く意識に上らない。「鯨」という季語がこの句の核を成しているわけではない。「鯨」の季語としての存在感もなく、季節感もない。実質としては無季俳句と見なしてもよいだろう。ただ不思議で不気味な景が浮かんでいるばかりだ。バスと鯨の二つが朦朧とした世界で混ざり合って、読むものを深い世界へ誘う。
4.完結を忌避する文体
前掲の句を収めた『凧と円柱』のあとがきで、智哉は句集が編まれた三章構成の仕方に触れて、「三つの章にもし意味づけをするなら、承・転・起、になる」と書いている。承ではじまり起で終わると言うのである。俳句はもちろん起承転結でつくるものではないだろう。しかし編集に関するこの物言いは、智哉の俳句そのものの在り方を暗示している。
起承転結の起は隠されていて、いきなり承ではじまったものが結ではなく起で結ばれる。閉じるべきところから何かが始まろうとするように。これを智哉の俳句に演繹すれば、智哉の俳句も結という完結をもたない文体であるとみなすことができよう。それは私が言う朦朧体という文体に重なっている。
ぶらんこをはづれて浮かぶ子供かな
(『こゑふたつ』)
前に挙げたぶらんこの句の他に、もう一つこんな句もある。今度は消えるのはぶらんこで、そこから空(くう)に浮かぶ子供が出現する。ぶらんこをはずれた子供の姿は完結を見せず、まだ遠くの宙に行ってしまいそうな未完結のさまに見える。そこから何かが始まるのかもしれない。それは起の姿でもあるだろうか。
朦朧体の俳句をもうすこし見ていく。
むかしには黄色い凧を浮かべたる
円柱は春の夕べにあらはれぬ
おぼろなる襞が子供のかほへ入る
まなうらが赤くて鳥の巣が見ゆる
複写機のまばゆさ魚は氷にのぼり
南から骨のひらいた傘が来る
断面があらはれてきて冬に入る
西日射す陸へあがつてきて歩く
『凧と円柱』から任意に拾ってみた。智哉の完結を忌避した俳句の文体は、下五の詞の置き方にもよく表れている。すなわち、下五における動詞、助動詞の多用である。
時制を表す助動詞のほかに、「入る」「見ゆる」「のぼり」「来る」「歩く」など、平凡でそっけない動詞を使って俳句が結ばれている。ちなみにこの『凧と円柱』全二百三十余句のうち、半数を超える百三十句ほどが動詞ないし助動詞(切字をのぞく)の結びになっている。私は切れ字と名詞止の俳句しかつくらないと豪語する俳人もいる中で、この動詞、助動詞止めの圧倒的な句数が示す文体は、智哉の大きな特徴の一つである。
それはどんな効果を句に与えているのか。
結語が動詞であるか名詞であるかは大きな差異となって一句の印象を変える。大雑把に言えば、名詞止は映像をしっかり定着させる効果をもつ。それは、一句を完結させる意識が強くはたらいた結び方である。反対に動詞は映像を揺れさせる。なぜ動詞の結びは句に揺れの印象を与えるのか。それは動詞が、本来的には事物を時間的に把握する詞だからである。動詞は事物を、持続したり変化したりしてゆくものとしてとらえる表現詞だからである。言い換えれば、動詞は時間性を持った詞なのである。
俳句は瞬間の詩であると、ある時期信じられていた。今もそう主張する俳人たちもいる。写生論はその主張を後押しした。写生は絵画論から出発したと言われるが、まさしく自然や風物を切り取った絵画に時間性はないのである。しかし智哉の朦朧体の俳句には時間性が内在する。先に「消す」という言葉に注目したが、何かが消えて別の何かが現れるという構造にも時間性がある。時間性を内包する句は、時間的な奥行きを作ると同時に、読む者の想像力の範囲を拡大する。像を結ばず、完結を感じさせないこの文体は、模糊とした世界を探求する朦朧体の俳句にふさわしい文体であると言えよう。
もう一つ、朦朧体の俳句を支える今一つの特徴は、ひらがなの多様である。
ひなたなら鹿の形があてはまる
いきものは凧からのびてくる糸か
芒から人立ちあがりくるゆふべ
(『凧と円柱』)
言うまでもなく、漢字表記とひらがな表記の違いは、俳句の表記において重要な部分を担う。このひらがな表記への偏愛は、師であった今井杏太郎から受け継がれたものであるかもしれない。
前にゐてうしろへゆきし蜻蛉かな
(『通草葛』)
みづうみの水がうごいてゐて春に
(『風の吹くころ』)
杏太郎の代表的な句を挙げてみた。
漢字表記は歴史を振り返るまでもなく、観念的な概念等を記述するのにふさわしい、言葉の意味性を重視する表記である。一方ひらがなは、意味性よりは情感をゆるやかに表出させる。意味性は抑制され音感が重視される。漢字が概念把握を主に知的操作を感じさせる表記なのに対して、ひらがな表記は、言葉の原初的なイメージを保存する工夫でもあるのかもしれない。
このひらがな表記の多用も、朦朧体に寄与しているだろう。朦朧体の俳句は、明確な輪郭をもって読者を説得することがない。むしろ輪郭の曖昧さに俳句表現の目指すものが潜められているのである。
5.「中心の無い俳句」
初めて智哉の俳句を『新撰21』(邑書林)で見た時の印象が忘れられない。それは今も新鮮だ。
花冷の頭が壁にあたるかな
十薬にうつろな子供たちが来る
こほろぎのゐる港には怖い船
(『こゑふたつ』)
「花冷」というロマティックな季語は、「花冷の頭」と表現されることで、今までのどの俳句にもなかった一種異様な物質感が醸し出される。頭が「壁にあたる」ことで滑稽を越えた不思議な世界が切り出されている。
十薬はドクダミとも呼ばれ、消毒作用のある強い匂いを発する白い十字形の花である。その十薬に子供がやって来る。「うつろな子供」が。ぼんやりとした、抜け殻のような子供が。ここでも子供の実体が「うつろな」によってぼかされている。ここから立ち上がってくるのは、やはり不思議な異次元の世界である。
「こほろぎ」は普通は庭とか畑といった土や叢にいるのだが、この句では「港」にいる。しかもその港には怖い船が停泊している。前の句の「うつろな」もそうだが、「怖い」も形容詞の一語が句の姿を一変させる。この主観的な形容詞が独特のイメージを生み出させるのだ。「怖い船」とはどんな船なのか。海賊船? 密輸船? 何んとなく「赤い靴」の女の子が異人さんに連れられて行った船のようでもある。ありふれた「こほろぎ」が一種の異様さを付加されて別の生き物のようでもある。これらの句の不思議感は、現実の世界をめくって見せた非現実的な世界につながっているところから来るようなのだ。
非現実的な世界へ導いてゆこうとする智哉の俳句は、おそらく一句の中に核となる言葉を持たない構成上の工夫からも生まれて来ていると思われる。
先の句でいえば、「花冷」という季語がこの句の中心をなしているのではない。「花冷」と「頭」は、ほぼ等価である。同様に「十薬」と「子供」、また「こほろぎ」と「怖い船」も等価である。季語が句の中心の言葉であるという発想は、これらの句にはないのだ。季語も他の語と並列の関係で機能しているにすぎない。
桐一葉日当りながら落ちにけり
大根の葉の流れゆく早さかな
虚子(『五百句』)
現代俳句の見本ともいうべきこれらの虚子の句には、一句の中に明確な柱となる語がある。「桐一葉」であり、「大根の葉」である。これらは、一句の柱を担うにふさわしい、和歌以来の歴史性を背負った季語で、他の言葉は季語を際立たせるために準備された言葉なのだ。それは一物仕立ての句のみならず、配合とか取合わせとか呼ばれる二句一章の句においても同様である。
海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花
虚子(『六百五十句』)
「桃の花」と「海女」は等価ではない。句の中心にあるのは、あくまで季語の「桃の花」である。陸に憩う「海女」と取合わされることで、「桃の花」は輝かしく一句の中心に収まる。
智哉の句の新鮮さは、これらの従来の俳句の方法を越えた言葉の構成の仕方にかかっている。近年、智哉は「中心の無い俳句」というものを提唱している。
私は、俳句が有季でなければならない、とは思っておらず、無季の一句の中には、季語の代わりとなる言葉(「キーワード」とも呼ばれたりしています)、一句の中心となる言葉が、必ず必要だとも思っていません。(中略)特別な存在としての単語(季語、キーワード)が不在で、言葉と言葉の引っ張り合いだけがあるような句。そういう句があってもいいのではないでしょうか。
(「俳句を、教育的なことばではなく、語ろう」2018年「HAIKU+」)
「中心の無い俳句」と言えば、かつて河東碧梧桐によって主張された「俳句無中心論」が思い出される。
碧梧桐は、それまでの俳句が、中心点を作るために自然をありのままでなく作為を以てしたことに異を唱えて、「雨の花野来しが母屋に長居せり 響也」の句を例に、事実そのものを偽らずに叙すことの正しさを主張した。この自然を作為なく写し取るという手法には、子規の写生の正当な後継であるとの意図が込められていただろう。
智哉の言う「中心の無い俳句」も、碧梧桐があげた例句のように、一句のなかに自然な時間性を内在させつつ、中心点を持たないという点で共通している。しかし、自然を写し取るというのとは明確に異なっている。
いうれいは給水塔を見て育つ
(『エレメンツ』2020年)
最新の第三句集『エレメンツ』にある一句である。自然を写し取った俳句ではもちろんない。無季ともみえるこの句は、いったい何を表現しようとしているのか。
「いうれい」は、ひらがな表記の効果もあって本物の幽霊のように薄ぼんやりとしている。むしろ、給水塔の方がリアルな存在感を持っているように見える。「いうれい」と「給水塔」という二つの言葉がたがいに、智哉の言う引っ張り合う関係にあって、そこから何ものかを表現しようとしているのか。
給水塔は日本の高度成長期の団地などに無機質的にそびえていた構造物である。それを見て育ったのは、団地に住む子供たちだった。
とすれば、給水塔を見て育った「いうれい」とは、子供たちの喩なのか。給水塔を見て育った子供たちは、まるで「いうれい」のように薄ぼんやりとした存在としてこの世を生きて育ったのか。そんなふうに言ってみても、句の内実に届いているとは思えない。また、「給水塔」の水と、幽霊の親和性を言ってみてもあまり意味がないだろう。この句の表現が目指すところは、別のところにあるようなのだ。
おそらく、「いうれい」と「給水塔」、この二つの関係から「育つ」という言葉を介して、まったく別の世界が提示されていると見るのが正しいだろう。それはいわば、われわれの解説の言葉を越えた何ものかなのだ。われわれの解釈を拒絶してあるものなのだ。
おわりに
この秋のをはりの旗を配らるる
ビニールを揉むと夕日のうちに暮れ
しらいしは首から上を空といふ
会をしに出てゆく秋の体たち
(『エレメンツ』)
最新のこれらの句もまた、これまで述べて来た朦朧体の俳句の特徴を備えている。いくぶんかの現実感を残しながらも、目に見えるクリアな情景でもなく、切々と訴えたい心情でもない、中心を失くした、言葉と言葉のゆらぐ関係だけがあるような世界。
智哉の俳句の不思議な世界は、われわれの批評の言葉でたどることを難しくさせる。それは朦朧体の俳句が、言葉をあやつるわれわれの意識の表層部ではなく、深層意識に届かせようとしているからなのかもしれない。朦朧体の俳句には、われわれの意識下の遠い世界、深層意識にある何かを呼び覚ますような気配があるのだ。
深層意識を無意識世界と呼び替えてもよい。個人の無意識は、われわれの中に蓄積されて眠る何万年の共通無意識の地層につながっているだろう。難解でありながら、われわれが智哉の俳句に共感するのは、そういう世界での共鳴なのかもしれない。
智哉は1969年生まれの、今日では若いと言ってよい俳人である。「新しみは俳諧の花」(芭蕉)であるなら、俳句の花は、若い俳人の新しい試みのなかに求められてよいだろう。すくなくとも智哉の朦朧体の俳句には、俳句表現の新しい可能性が開けているように思われる。