大牧広句集『大森海岸』
👤仲寒蝉(なかかんせん)

大牧広は「沖」にいる頃から人事句の名手と言われた。
晩年には「社会性俳句の再興」という表現を使い、戦争や東日本大震災、原発事故などを詠んだ。
とりわけ戦争については亡くなるまで庶民の立場からそれに反対する俳句を作り続けた。
14歳で敗戦を迎えた大牧少年は昭和20年の東京大空襲で家族こそ死ななかったが家を焼け出されたのである。
また姉たちは疎開し兄は入営したという経験を持つ。
だからこそ蛇笏賞を受賞した最後の句集『朝の森』でも

開戦日が来るぞ渋谷の若い人

と詠んで戦争を忘れてはならないとのメッセージを遺した。

『大森海岸』は2019年に亡くなった大牧広が生前に上梓した10句集のうち第7番目に当たる。
奥付では2012年(平成24年)4月30日発行、著者満81歳。
句集には平成20年~23年の俳句が収められている。
10の句集を見渡すとこの句集あたりから現代社会を扱った作品が増えてくる。
また老を詠んだ句、諧謔味のある句も多く、そういう意味で大牧俳句を知るには恰好の句集と言える。

大牧は2009年(平成21年)に第64回現代俳句協会賞を受賞した。
当時の現代俳句協会賞は個人句集対象の現在と異なり、他の会員から推薦を受けた会員が過去3年間の作品から50句抄を提出し、これを選考するという方式であった。
大牧の場合、対象句には第6句集『冬の駅』所収の俳句が多く含まれていたと考えられる。
従ってこの『大森海岸』は同賞受賞を受賞した直後の成果と言うことができる。

この句集には2つのピークがある。

1つは戦争に関する俳句。
「焦土の夏」と題された10句はじめ戦争関連の句はこれ以前の句集よりも増えてきている。

もう1つは2011年3月11日に起こった東日本大震災に関する俳句。
主宰誌「港」には宮城支部があり、被災された方もいたのである。

すててこや鉄が国家でありし頃

一読では戦争と無関係に思われるかもしれないが「鉄が国家」という表現からは八幡製鉄所や神戸製鋼所が造られた明治の終わり頃、さらに列強が戦艦という鉄の塊を建造する競争に明け暮れていた昭和初めまでを想起させる。
正に鉄の時代であり、その生産力が戦争の勝ち負けを左右した。
すててこという庶民的、柔らかいものと国家的で硬い鉄との対比。

「なにもかも焼けた」と母の灼けし髪
敵機もう何も落さず焦土の夏

2010年(平成22年)「俳句研究」夏の号に掲載された「回想昭和二十年・焦土の夏十句」から抜いた。

1句目、「焼けた」と「灼けし」という漢字の使い分けが絶妙。
呆然と佇む母の顔が浮かぶ。
これは3月10日の東京大空襲で家が全焼した時のことか、或いは敗戦の日に焦土となった東京を前にしてのことか。
どちらとも取れるが「灼けし」という夏の季語が使われているので後者であろう。
火事によって顔が灼けたと考えれば前者であるが季語ではなくなる。

2句目、先述したように大牧の家は焼夷弾で全焼した。
彼にとって戦時中の空とは爆弾や焼夷弾が降ってくるところであった。
第4句集『昭和一桁』では

夏景色とはB29を仰ぎし景

と詠んでいる。
しかしもう戦争は終わった。
ここは焦土、これ以上焼けるものは何もない。
敵機とてもう爆弾投下はしまい。
これからの夜は灯火管制もなく安心して眠れるのだ、という偽らざる庶民の思いを代弁している。

進駐軍の尻の大きさ雁渡る

これこそ大牧少年の目が捉えたままの正直な進駐軍のイメージと言える。
とりわけ彼らの「尻の大きさ」に注目したのが鋭い。
肉体的な大きさ、強靭さ、中でも生命力に溢れた部位が尻。
日本では食べるものもなく痩せ細った兵隊しか知らなかったのが肉を食って巨大に肥った米兵の尻を見て純粋に驚いたのだ。
こんな奴らと戦争しても到底勝てっこないよな、少年はそんな思いでジープの座席に座る米兵の尻を見つめたことだろう。
この句は集中、いや大牧の残したすべての俳句の中でも白眉ではないかと思う。
少しの滑稽味を伴いつつ、物に託して戦争の愚かさを静かに訴えている。

次に震災に関する俳句。

三月十一日以降の海を信じない
ランドセルが哀しい春でありにけり
黒南風の海や人間返しなさい

1句目は表現としては大袈裟ながら感情に流される一方ではない。
「信じない」という毅然とした意志表明もありきたりではなく読者の胸を打つ。
震災から時間が経って冷静に見直してみると、大牧の震災関連の俳句でこの句が最も優れているのではないかと筆者は考えている。

2句目は津波に流され漂着したランドセルの遺品を詠んだものか。
震災さえなければ楽しい新学期であったものをとの思いはよく分かる。

3句目、海に対して呼び掛ける形を取っているのが珍しい。
海はこの句集の主人公とも言うべき存在であるから作者からその海へ呼び掛けたこの句は象徴的とも考えられるのである。

もともと庶民の目から社会を見るというのが大牧の俳句の立ち位置であった。
震災や原発事故では政府や大企業の対応のまずさが露呈した。
この一連の出来事は自身の戦争体験とも相俟って「何故いつも庶民ばかりが酷い目に遭うのか」との思いを強くさせ、大牧独自の社会性俳句と呼んでいいスタイルの結実へと向かわせたのではなかろうか。

最後にこの句集の題名となった大森海岸を詠んだ句を紹介する。

虹立ちし大森海岸逝く地なり

「あとがき」には「大森海岸は私の終生の地、高架には京浜急行がきっぱりと激しく過ぎてゆく。老人の私を励ますようにである。」と書かれている。
その京急大森海岸駅近くのマンションが彼の最期の地となった。