藍ことば
👤山下久代
所属結社「形象」
藍ことば海にも絵にも嗚咽にも
花卉のごと九九を蹴りては恋しては
挿し絵 水素と寂寞の空を飛ぶ
裁ちばさみ追憶の手足も遠ざける
名を暮れて丹を塗り残す捩り花
破約の火 普遍の火影 螢狩り
真水の夢想・瑪瑙の瞑想 文字化する
矢を射よ! 唯物論の襟を揺らしめよ!
ラ行の理 恋情を流浪する蝋細工
和紙をして井筒の飢えを包みます
山下久代「藍ことば」10句鑑賞
👤白石司子
▶藍ことば海にも絵にも嗚咽にも
音感からすれば「藍ことば」は「愛ことば」とも取れるが、藍の深い色より連想される静寂・神秘的な雰囲気の意志・思想・感情と解釈していいだろうか。
「海にも絵にも」と限定していき、下五へとたどり着く。
たとえ嗚咽であろうとも「藍ことば」なのである。
▶花卉のごと九九を蹴りては恋しては
異質な物と物とをつなぐ働きをする直喩「ごと」。
各時代を通じて学習されてきた九九を拒んだり、恋したりと結構大変だったけど、振り返れば花弁占いみたいなものだったなあ、といったくらいの意の倒置法を活用した句。
▶挿し絵 水素と寂寞の空を飛ぶ
挿絵を見た、或いは手に取った。
そこから一字空白の断絶による「飛」躍の世界が「水素と寂寞の空」。
宇宙に最も多く存在し、人体を構成する主な元素のひとつである水素、そして満たされぬもの。
それらは「空(そら)」いや「空(くう)」。
しかし我々人間には小型の絵や図案を見て動かされる心がある。
▶裁ちばさみ追憶の手足も遠ざける
針仕事に必要不可欠な裁ちばさみから連想される追憶の母、祖母、そして他者から手足のように思い通りに動かされるのを当然と考えていた女性としての固定観念。
それら全てを裁ち切り遠ざけるのである。
▶名を暮れて丹を塗り残す捩り花
有季定型であるが、「捩り花」は夏の季語としてではなく、実感を伝える為に外すことのできない題材だと考えたい。
「名を暮れて」の心境の象徴が「丹を塗り残す」であり、捩れた様子が苛まれる心のように見える捩り花が一句の中にピッタリ収まる。
▶破約の火 普遍の火影 螢狩り
一句の中に一字空白が二つ施されていて三段切れのようであるが、全体を貫くものはポジティブな側面とネガティブな側面を持つ「火」。
破壊的なイメージを持つ破約の火、リラックス効果をもたらす普遍の火影、螢の幻想的な光。
それらを狩るのか、愛でるのか、鑑賞は読者の自由である。
▶真水の夢想・瑪瑙の瞑想 文字化する
何故、真水、また、瑪瑙なのかはともかくとして、凡そ文字化が困難な「夢想」と「瞑想」。
もしそれが可能だとしても、所詮、点・線などを組み合わせた記号、即ち、本質を捉えることなど不可能なのである。
我々が作る俳句も。
それでも夢想、迷走、いや瞑想するのだ。
▶矢を射よ! 唯物論の襟を揺らしめよ!
存在の根拠を精神や心に求める唯心論の対立概念である唯物論。
「矢を射よ!」「襟を揺らしめよ!」の強い調子は虚子の客観写生への挑戦といった考え方も出来る。
「空白は 空白のまま」と沈黙せざるを得なかった赤黄男、一字空白表記による切れの認識を多行形式へと発展させた重信。
芭蕉のいう「責むる者は、その地に足をすゑがたく」なのである。
▶ラ行の理 恋情を流浪する蝋細工
ら行の「り」は作者にとっては「理(り)」。
理性、道理、義理、理由、理解、病理等々、どの「理(ことわり)」が相応しいだろうか?
何者にでもなれるのが蝋細工ではあるが、熱せられたり、型に嵌められたりしなければ、結局何者にもなれない。
ラ行の理に縛られながらも、当てもなく彷徨うか・・・。
▶和紙をして井筒の飢えを包みます
能「井筒」を題材としたものであると考えられるが、恋情を「飢え」としたところに俳諧的な世界がある。
それは作者自身の何かに対する欠乏感でもあり、自然の風合いと温かみのある「和紙」でもって包みます、秘めます、なのである。
山下久代氏の十句全体を通して「千変万化する物は自然の理(ことわり)なり。変化にうつらざれば風(ふう)あらたまらず(赤雙紙)」を思った。