
現代俳句2025年7月号「百景共吟」写真提供:小林一夫
現代俳句2025年7月号
「百景共吟」より2句鑑賞
👤秋尾敏
空海の発心時鳥一声
夏井いつき
ホトトギスの声の力に触発されて、「空海の発心」という発想を得たのであろう。
その声には吐血や死別などのイメージも重なっており、救われるべき人の苦しみも見えてくる。
空海の発心は二十歳前後のことだが、「発心すれば則ち到る」とまで思い至ったのは唐で密教を学んでからのことであろう。
菩薩となって修行を続けるのではなく、成仏してこの世を動かす摂理そのものになるというのである。
即身成仏にまで至ろうという人の「発心」には、宇宙そのものに匹敵するエネルギーが渦巻いていたに違いない。
泉より出でて尻尾をなくしたり
家藤正人
一句目に「万緑を喰ひたし猿に還りたし」とあるから、掲句の主人公も人類であろう。
連作とは限らないがテーマは一貫している。
二句目に「蕉風のたんと草の汁のおしり」とあるので、俳人としてのアイデンティティの問題を詠んでいることが分かる。
あえて図式化すれば、原初の蕉風が「猿」であり、「泉」で尻を洗って身ぎれいになり、「尻尾」も捨て、「万緑」を眺めるだけになってしまったのが現代俳句、という構図になる。
同感である。
👤永井江美子
ほととぎす真っ正直な山の水
夏井いつき
万緑の山と、流れ落ちる水の勢いの映像のなかに掲句はある。
作者は、この万緑の山をじっくりと見つめ、その奥に啼いているほととぎすを感受した。
この句には何ら難しい言葉も意外性も、日常を蹴散らすような衝撃の強さもないが、景を切り取る眼差しの機鋒は鋭く、平易であるが握力は強い。
万緑の山を揺るがすようなほととぎすの声と、流れ落ちる水を真っ正直だと思った心情の奥深さは、自然の裡に潜む生そのものと言えるのである。
泉より出でて尻尾をなくしたり
家藤正人
景色を見て、ふいに思い出す何かがある。
美しさや生々しさを其処に見て、その人を突き動かす或るモノが浮上してくる。
その感情を掬い取るのが俳句であるならば、俳人に潜む内なる世界、無意識の俳句があるのは当然で、掲句はかつて尾のある生き物であった作者の深層の一句である。
泉という形式の恩寵に居た時には残っていた尻尾、それが泉から出ることにより失くしたことは、生まれ変わった喜びとしてではなく、泉という季語を媒体として書き得た、〈人間であることの存在の哀しみ〉であると受け取った。