第45回現代俳句評論賞 受賞作
俳句になったデューラー
── 中村草田男「騎士」の新解釈 ──

👤元木幸一

はじめに 西洋美術の俳句化

第二次大戦後の俳句には、ときどき西洋美術家の名が登場する。現代俳句協会のデータベースによれば、ゴッホ18句、ピカソ10句、ダリ9句が戦後俳句に登場する画家のベスト・スリーである。ところが、戦前の俳人たちの句に西洋美術家が登場することは意外に少ない。夏目漱石や森鴎外のようなヨーロッパ留学をした文学者の句ですら現れない。

戦前の文学誌『白樺』や、歌誌『アララギ』には西洋美術の図版が掲載されていた。斎藤茂吉などは図版解説を自ら執筆するほど西洋美術に傾注していた。なぜならヨーロッパの新しい芸術思潮を知るために、文学者も新しい美術を学ぼうとしたのである。

だが、戦前に欧州旅行を体験した高浜虚子には、旅行中に西洋美術家を詠んだ句はまったくない。虚子はヨーロッパ各地を巡りながら、当地在住の日本人を集めて句会を催すことで満足していたようなのである。

ところが虚子の弟子、中村草田男は全く異なる。彼は、ドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの銅版画《騎士と死と悪魔》i の細部を丹念に分析し、13句の連作「騎士」として詠みあげたのである。小さな銅版画一枚を見て、13もの俳句を作ったのだ。草田男がなぜにこれほど真剣にデューラー銅版画を俳句に詠んだのだろうか。さらに、その言葉はデューラーの画像にどれほど肉薄したのだろうか、またその連作俳句は俳句の歴史においてどのような意味を有したのだろうか、具体的に分析しようと思うii

1.デューラー銅版画《騎士と死と悪魔》と草田男の連作俳句「騎士」iii

R.Schoch, M.Mende, und A. Scherbaum, Albrecht Dürer. Das druckgraphische Werk Bd.1, Prestel, München, London, NewYork, 2001, p.171.

デューラーの銅版画《騎士と死と悪魔》は1513年に制作されたデューラーの「三大銅版画」と呼ばれる名作の一つである。

草田男が高校生時代から愛好していたデューラー銅版画《騎士と死と悪魔》を13句の連作として詠んだのは、敗戦前年の昭和19年のことだった。

この連作俳句の解釈についてはすでに芳賀徹の大著『絵画の領分 近代日本比較文化史研究』があるiv。だが、芳賀は当時の俳壇状況やそれと草田男の関係をそれほど重視していないように思われる。小論ではその点を再考して新しい仮説を提出したい。

13句連作をあげておこう。

蜥蜴ゆく騎士行進の四蹄の間(ま)を
眼(まなこ)澄む犬馬は騎士の汗の伴(とも)
夏も寒し畫面を過(よ)ぎる決意の槍
夏痩せの魍魎騎士はかへり見ず
智の蛇嗤ふ個の命數の砂時計
夏枯木死神(しにがみ)騎士の眼路(まぢ)追ひ得ず
騎士の好餌公敵夏野の果(はて)にひそむ
炎天の馬衣は緋ならめ髑髏は白
騎士は負ふ故友茅舎の露の崖を
騎士既に城に發せる清水越えぬ
地の上の夏山の上祖國の城
騎士の別れ故山は夏樹(なつき)岩に栄(さか)ゆ
名を換えよ騎士と夏山誰が世ぞ

まずは詳細に版画(挿図)を観察し、一つ一つの俳句を分析・記述しよう。

(1)蜥蜴ゆく騎士行進の四蹄の間(ま)

騎士も、死神も、悪魔も、馬も、犬も画面の左方向へ進んで行く。それに対し、馬の下つまり4つの蹄の間、そして犬の下にいる蜥蜴は右方向に進んでいる。蜥蜴だけが逆方向なのである。草田男はこの奇妙さに注目して句にした。13句の初句の冒頭に「蜥蜴ゆく」と詠んだのだ。デューラーがこの蜥蜴を意識的に描いたのと同様に、そこに目をつけた草田男も最も気にかかるモティーフとして「蜥蜴ゆく」と詠んだのである。

(2)眼(まなこ)澄む犬馬は騎士の汗の伴(とも)

騎士の眼も、騎士が乗る馬の眼も、きりっとして前を見つめる。その眼は、死神、悪魔に比較すると澄み切っている。デューラーは眼の表現にこだわった画家である。例えば銅版画《メランヒトン肖像》vでは眼に矩形の窓が映っている。古代以来伝わってきた「眼は心の窓」という常套句の図像化である。その眼へのこだわりに注目した草田男は、犬と馬が騎士と伴に歩んでいく姿を眼に注目して詠んだのだ。

(3)夏も寒し畫面を過(よ)ぎる決意の槍

「夏も寒し」は第六句の「夏枯木」と響きあう。本来の夏なら濛々と葉が茂るはずなのだが、この絵の背景には枯れ枝が見える。寒いのである。寒冷の夏に屹然と進む様を表すように、騎士の槍は画面を左から右上へ対角線状に横切る。騎士の決意を示すのである。騎士の決意を見たいのは草田男なのだ。

(4)夏痩せの魍魎騎士はかへり見ず

「魍魎」は、騎士の後方にいる悪魔だろう。沙悟浄のような豚の鼻、頭上に一本の角、耳の下に二本の巻き角を有する。左手には三叉の槍を持っている。この悪魔は「夏痩せ」に見えるという。悪魔にしても疲れ気味で、恐ろしさはない。騎士はそのような悪魔をかえりみる必要もない。化け物などどうでも良いと詠むのだ。

(5)智の蛇嗤ふ個の命數の砂時計

蛇は悪のこともあり、賢いこともある。この蛇は「智の蛇」ゆえに、『マタイによる福音書』第十章十六節の「蛇のように賢くあれ」に由来する賢い蛇なのだ。蛇は2匹いる。死神の冠に絡んでいる1匹と首に巻きついている1匹である。そして死神は文字盤付きの砂時計を右手で持っている。円盤上の数で寿命を示す「命數の砂時計」である。2匹の蛇はともに口をわずかに開けて笑っているように見える。死神も口を開け、笑っている。

(6)夏枯木死神(しにがみ)騎士の眼路(まぢ)追ひ得ず

死神が近づいた樹木は夏にもかかわらず、枯れていく。そして騎士の視線の先を死神は追跡することができず、ただ、騎士を見ているだけなのである。

(7)騎士の好餌公敵夏野の果(はて)にひそむ

「騎士の好餌」は騎士の餌食、公の敵である。その敵は「夏野の果にひそむ」という。野の果ということは遠方の山頂に見える要塞だろうか。要塞に敵が隠れているのだ。

(8)炎天の馬衣は緋ならめ髑髏は白

「馬衣」とは馬が鞍の下につけている布であろう。それが緋色で、左下隅の髑髏の白と強烈な対比をなすというのだ。しかしこの銅版画は多色刷りではない。緋色と白の対比は草田男の想像にすぎないのだ。とはいえ草田男の俳句には白が頻繁に登場する。白は好みの色なのである。つまり髑髏を白ということで、死者への親しみを強調している。とすると、髑髏は(9)の句に登場する亡き友茅舎なのであろうか。

(9)騎士は負ふ故友茅舎の露の崖を

「故友茅舎」つまり川端茅舎は、昭和16年に44歳で亡くなった「ホトトギス」同人の親友であるvi。彼はもともと画家を志していただけに、草田男同様、若い頃からデューラーを愛好していた。茅舎のエッセイ『デューラーの崖』には、「アルブレヒト・デューラーは我が少年の日の憧憬なりしが、はからずも我本門寺裏なる三方の崖の皆デューラーが形相」viiとある。つまりこの版画での騎士背後の崖は、茅舎が少年時代に気に入っていた崖を思わせたらしい。草田男にとっても、この崖が画家志望だった茅舎を偲ばせるというのだ。この句によって、前句の白い骸骨が茅舎を象徴しているということに気づく。

(10)騎士既に城に發せる清水越えぬ

「城に發せる清水」はどこのことかはっきりしないが、おそらくは城からジグザグに下ってくる白い道のことなのだろう。草田男は道を「清水」と誤解したのではないだろうか。現在のように鮮明な印刷物を見ることの困難な時代である。ましてや拡大図版などはあり得ないのだから。

(11)地の上の夏山の上祖國の城

デューラーはドイツ・ルネサンスの中心都市ニュルンベルクの出身である。とすると「祖國の城」とはニュルンベルクのカイザーブルク(皇帝城塞)ということになろう。版画には岩山の上に円塔が一つと角塔が一つある。それはカイザーブルクと同じ構成である。ただし、草田男がカイザーブルクとの類似を承知して「祖國の城」と詠んだかどうかは不明である。むしろ、草田男の故郷の松山城を念頭に置いて詠んだと解したほうが良いのかもしれない。松山城も市中にあるのだ。デューラーと自らを結びつけるのが、城だったのではないだろうか。

(12)騎士の別れ故山は夏樹(なつき)岩に栄(さか)

夏の樹木といえども、葉が茂っているわけではない。荒涼たる景色である。騎士は、この故郷の山から別れるのである。それだけではない。ここで騎士と蜥蜴も別れるのだ。

(13)名を換えよ騎士と夏山誰が世ぞ

「騎士と夏山誰が世ぞ」というのは、「騎士と夏山」に批判的な姿勢なのだろう。「誰が世ぞ」と問う訳は、「騎士と夏山」が我が世と思っているがゆえであろう。だが、「名を換えよ」という。「世」が誰のものかを変えよというのである。夏山は、この景色をみれば、夏らしい生命感に満ちているわけではない。ここは夏山の世ではないのだ。では騎士の世なのか。換えなくて良いのかと厳しく追及しているように思える。これが結論である。

この13句からなる連作は、24.6×19センチという小さな画面の銅版画を隅から隅まで忠実に観察している点、そして亡き親友川端茅舎に結びついている点(9)、故郷松山を思い出させる点(11)、さらに「騎士」に対して「名を換えよ」と呼びかけている点(13)が重要だと思われる。

そして冒頭に出てくる「蜥蜴」とは誰を象徴しているかという謎。さらにただ一人、固有名詞が出ている「茅舎」が重要であること。この連作俳句の最重要人物は茅舎ということになる。

もう一人、重要人物が実は隠れている。銅版画の作者アルブレヒト・デューラーである。デューラーはルター宗教改革の同時代人である。しかも改革派に共感を寄せていたに違いない。そのような改革期の人への共感は戦時期の草田男の立場と相通じるものがあったのではないだろうかviii。

2.茅舎と虚子

第9句「騎士は負ふ故友茅舎の露の崖を」の茅舎は、画家川端龍子の異母兄弟であり、もともとは画家を目指していた。大正10年(1921年)、岸田劉生に師事したので、劉生も好んだデューラーに憧れるのは自然だった。『ホトトギス』に投句を始めたのは大正4年(1915年)からである。しばらくは画業と俳句をともに嗜んでいた。ところが昭和4年(1929年)に劉生が死去し、茅舎も昭和6年に脊椎カリエスで入院することになり、画業を諦めた。そこで俳句を作りながら10年間の闘病生活を送ることになる。

彼の得意な俳句モティーフは「露」だった。例えば、「露つゆこみち径深う世を待つ弥勒尊」、「白露に金銀の蝿飛びにけり」、「金剛の露ひとつぶや石の上」ほか多数の露の句が遺され
ている。それゆえ「露の茅舎」と呼ばれた。第九句の「露の崖」は茅舎を偲ぶにふさわしい措辞だったのである。そして画中で露の崖を背負うように見えるのが、騎士である。騎士は「露のイメージ」を背負わねばならないと詠んでいるのである。とはいえ、実際に版画中に露が描かれているわけではない。崖も茅舎に結びつくイメージだったので、崖から露へ、そして茅舎へと連想が繋がるのであろう。

師虚子もまた茅舎をこよなく愛し、『茅舎句集』の序に次のように記す。

「茅舎句集が出るという話を聞いた時分に、私は非常に嬉しく思った。…(中略)…露の句を巻頭にして爰に収録されている句は悉く飛び散る露の真玉の相触れて鳴るような句許りである。
昭和9年9月11日 ホトトギス発行所 高浜虚子」ix

虚子は茅舎を「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼んだ。虚子が俳句の重要なテーゼと考えていた「花鳥諷詠」を最も生真面目に遵守したのが茅舎だと考えていたらしい。それゆえ虚子は茅舎をとても可愛がっていた。茅舎が脊椎カリエスという虚子の師たる子規と同じ病だったことも関係するだろう。

一方で、茅舎は虚子を大いに尊敬していた。例えば、虚子の句「悴める手を暖かき手の包む」を茅舎はこう説明している。「それはデューラーの合掌する手であった。万人の等しく持つ自らの手であった。だれもが包まれ誰もが包んだ事のあった手であった。」x 実はこの句の「悴める手」をデューラーの手とするのは、茅舎の独り勝手な解釈である。多分それを承知の上で、茅舎は「デューラーの手」というのである。茅舎はドイツの大画家デューラーと俳人虚子を同列に置きたかったのだ。そして草田男もまたかつてはそのように願ったに違いない。

3.戦時期の「ホトトギス」と草田男

デューラーの銅版画を俳句化するのに、茅舎という俳人を登場させるのはどういうわけだろう。それはデューラーという大芸術家を通して草田男は茅舎と結びついたからである。そして俳句への生真面目さという点でも二人は共通していた。この連作俳句が生まれた戦時期は、草田男にとってどのような時期だったのだろう。

戦後の回想なのだが、草田男は戦時中の俳壇に対する気持ちを次のように語っている。

「俳壇の先輩(「ホトトギス」の先輩)は、急に官僚に豹変して、当局の勢力を背後に負ってクルリと俳壇の方へ、殊に俳壇の後輩の方へむいてしまったのです。そしてそれを監視し、それを機械的に駆使する役をつとめはじめたのです。それへのフンマンも、茅舎への死にぶつかって、爆発してしまいました。」xi 
(「俳句事件」『俳句研究』昭和29年1月)

茅舎が亡くなったのは昭和16年だが、それ以前に草田男は「ホトトギス」内で問題視されるようになっていた。それは昭和15年『ホトトギス』誌に掲載された「あまやかさない座談会」に現れている。草田男を囲み、7名の「ホトトギス」俳人たちが吊るし上げようとしていたのである。「あまやかさない」というのは、「草田男をあまやかさない」という意味である。もちろん、草田男は先輩たちの追及に懸命に太刀打ちした。草田男は、文学としての俳句を試みようと主張するのだが、虚子は結局は「俳句はもっと寛容なものだと思う」と曖昧な言を吐くのである。

「京大俳句事件」と呼ばれる新興俳句の俳人28名の治安当局による検挙事件は、まさにこの昭和15年から16年にかけて起きた。例えば昭和16年に逮捕された秋元不死男はこのように詠んでいる。「捕へられ傘もささずよ目に入る雪」「獄へゆく道やつまづく冬の石」。獄中で1年を経た時の句はこうである。「ひと日うれし獄に尊き蝶おり来」。保釈で出所できたのはやっと2年後だったxii。

このような戦時体制に多くの俳人たちも巻き込まれ、殊に「ホトトギス」は最大勢力であるがゆえに、厳しい視線を向けられた。そのような状況の中で草田男は松山中学時代の親友である左翼画家重松鶴之助が獄中で命を落とし、さらに俳壇で最も親しい仲だった茅舎が病没するという重大な苦痛を体験したのである。先ほどの回想でいう「フンマン」が「爆発」したのはこのような時期だった。当時の草田男の句を挙げてみよう。

「目の大きな子供なりしが入営す」
「軍国の冬狂院は唄に充つ」
「若者には若き死神花石榴」

このような句に現れているのは戦時体制への批判的な気持ちだったのではあるまいか。そして戦時体制に協力する「ホトトギス」の先輩たちにも「フンマン」を感じていたことだろう。結局、昭和18年以降、特高の下請けとなった「ホトトギス」の先輩たちによって草田男は『ホトトギス』への投句を辞めざるを得なくなるのである。デューラー版画の連作俳句を作成したのはその翌年だったxiii。

4.騎士と蜥蜴

連作俳句「騎士」をそのような状況の中で解釈することにしよう。特に注目するのは、騎士と蜥蜴の正体である。草田男はともに重要なモティーフと考えていたはずだ。

この連作俳句の解釈で最も有名なのは芳賀徹の仮説である。大著『絵画の領分 近代日本比較文化史研究』第六章「草土社の周辺―─劉生から草田男へ」xiv で提出された仮説を戦時中の俳壇状況に対する草田男の立場から再考し、騎士、蜥蜴、そして朦朧、死神などの正体について新たな仮説を提示しようと思う。騎士について、芳賀は茅舎のための弔合戦に進撃する「騎士草田男」だというのだがxv。

まずは「蜥蜴」の正体を考えてみよう。蜥蜴は、蝙蝠などとともに草田男が特にこだわっている生き物だからである。昭和12年に作られた「父となりしか蜥蜴とともに立ち止まる」という句がある。草田男はここで父になった自分を蜥蜴と一緒に立ち止まったとして、同列に並べているのだ。

「騎士」の7年前のその年、草田男は「現代俳句の問題」というテーマの座談会で、「父となりしか蜥蜴とともに立ち止まる」の句を「一寸グロテスクだな」と批判した歌人太田水穂に対し、次のように反論した。

「太田さんはいまグロテスクだと言われましたが、それは蜥蜴が人生事象を詠った句の中へ強い役目を負って出て来ている其点だけをみて、すぐにそうおっしゃったんですか。蜥蜴があれば直ちにグロテスクだなどというのは、自然物に対する目の覆いがそのままになって居るという云いようのような気がします。一見しただけで漠然と、ただグロテスクだと―─材料と構成と感覚が異常だと―─云っただけでは評価の言葉にはならないと思います。」xvi

かなりきつい言い方である。どうして草田男はこれほどムキになって蜥蜴という言い方を抗弁したのだろう。蜥蜴を自分と同一視しているからに他ならない。

デューラーの版画で蜥蜴は一人逆方向へ進んでいる。騎士、馬、犬と逆方向なのである。小さな存在である蜥蜴だが、大物たる騎士らとは唯一異なる方向に歩んでいるのだ。これに対し、芳賀は蜥蜴を「小動物」を扱う俳諧の伝統的技法とする。蜥蜴に特別な意味を探ってはいないのである。例えば一茶の句で出現する虫のような愛らしい「小動物」の一つとして扱っているというのである。だが、そうだとすればわざわざ騎士の逆方向に行進する存在として真っ先に詠う必要があるのだろうか。草田男は明らかに蜥蜴を特別視しているのである。それゆえに蜥蜴は草田男自身であると考えねばならない。

そうだとすれば、芳賀が草田男と同定した騎士は誰に当たるのだろう。草田男でありえないなら、虚子なのではないだろうか。第9句「騎士は負ふ故友茅舎の露の崖を」をもとにして考えよう。騎士は茅舎の「露の崖」を背負わねばならないのである。茅舎は先ほど述べたように虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼ばれたほどの人だった。「花鳥諷詠」とは虚子にとって俳句の重要テーゼだった。その虚子のテーゼを真っ正直に信じ込み、俳句作りの絶対的基礎と考えていた弟子が茅舎だった。草田男は茅舎を「ホトトギス」の最も親しき友としてはいたが、「花鳥諷詠」を信じ込んではいなかった。その点で茅舎と草田男の間には微妙な差があったのである。つまり草田男は茅舎の「露の崖」を背負ってはいなかった。そして背負うべきは誰かという
と、虚子以外にいるわけはないと考えていただろう。戦時下の俳壇においてしっかりと俳句の世界を守りきるべき存在は虚子以外にあり得ないと考えるのは当然だったろう。

さらにいえば、虚子は「花鳥諷詠」を唱えてはいたが、実際は自然のみを句の題材にしたわけではない。逸脱することも頻繁にあった。より徹底していたのが茅舎だった。虚子に対し、草田男は茅舎のようにもっと徹底せよ、騎士のごとく進めと言いたかったのではないだろうか。騎士、つまり虚子の進路を見つめる存在が、画面左下にいる。死者を示す骸骨で、それは茅舎の化身なのである。

そういえば、虚子という俳号は本名「高浜清」をもとにして子規が名付けたことを思い出そう。「きよし」を「きょし」にしただけなのである。このような言葉遊びは俳人の間で俳諧味とされてきた。草田男という俳号も、幼少時に体が虚弱だったため親戚から「くさった男」のような子と言われていたことに由来すると自ら語っている。そうしてみると、「きょし」と「きし」の近さに気づくべきだろう。草田男にとり、虚子は騎士へと容易に変貌するのだ。「くさった男」から草田男という俳号を生み出した人なのだから。

さて、では死神と悪魔の正体はいかに。戦後に催された戦時中の俳人弾圧について語る座談会で、草田男は次のようなことを述べている。「俳人のような或る役人のような男」が、昭和16年3〜4月に虚子のところに来て「草田男などは…(中略)…伝統を無視したような放埓な作品を作っている。時局をわきまえない、つつしみのない態度だ」xvii と言って来たらしい。このように結社の中心人物に恫喝をかけることで、俳人たちを支配しようとしたのである。そうした事情をふまえると、おそらく「ホトトギス」内で戦時体制を推進し、それゆえ草田男を「ホトトギス」から追い出した「先輩たち」xviii やその「先輩たち」を陰で操った黒幕的な小野蕪子がそれらに当たるのではあるまいか。小野蕪子が昭和18年2月に死去したことからすれば、死神が彼に相当するのかもしれない。そうすると「先輩たち」が悪魔なのであろう。デューラー版画の悪魔は決して恐ろしいわけではない。むしろ弱気で間抜けな怪物に見える。この悪魔は「夏痩せ」をして「騎士がかへり見」なくて良い存在なのである。これは、草田男が「先輩たち」に感じていたのに似て、恐ろしい存在というよりも、権力を恐れている弱虫に過ぎない。この悪魔像にぴったりなのではないだろうか。

5.連作俳句という仕掛け

「騎士」は13句からなる連作俳句だが、連作俳句を草田男に先立って作ったのは大正末期の水原秋桜子である。彼は一句だけでは表現できない、構成的な文学世界を構築しようと試みたのである。だが、虚子は秋桜子のこの試みを認めなかった。もともと「ホトトギス」の趣味的な傾向に満足できなかった秋桜子は、これをきっかけに「ホトトギス」と袂を分かち、山口青邨、富安風生、日野草城、加藤楸邨、石田波郷らと『馬酔木』に参加したのである。草田男はこの時「ホトトギス」に留まったが、花鳥諷詠とは異なる文学世界を構成することを目指した。その手段の一つが連作俳句だった。彼は楸邨、波郷などとともに、人間探求派と呼ばれることになる。

その草田男が、昭和21年に京都大学教授桑原武夫により『世界』に発表された、俳句を非難する論文「第二芸術」xix に対して最も激しい反論を展開したのである。草田男が「騎士」の連作俳句を詠んだのと桑原の「第二芸術」とでは、2年ほどの時差があるのだが、草田男の俳句への考え方を理解する上で、この議論はひじょうに重要だった。

桑原は、ヨーロッパの深い人間探求を目指す西洋芸術に比して、志が低く、大衆芸術と化している俳句は同列に置けるのだろうかと問う。強いて芸術の名をつけたければ、せいぜい「第二芸術」と呼べばいいのではないかと。桑原は、俳句の作例を具体的にあげて批判するのだが、その批判があまりにも俳句解釈の常識を外れるものであり、単なる校正ミスにもかかわらず、意味が不明と断ずるなど不手際の多いものだった。

だとすれば、草田男はそれほどムキになり、食ってかかる必要があったのだろうか。虚子などは本気で相手にせず、軽くいなすような態度だったのである。

いや、草田男こそ虚子と異なり、本気で俳句を芸術にしようと考えていたからこそ、この非難に我慢がならなかったのだろう。連作俳句を用いることで構築された言語芸術たらんとし、人間探求派と呼ばれるほどに、虚子的な伝統俳句から抜け出そうと努力してきたのだから。

草田男は、この連作俳句という仕掛けでヨーロッパの偉大な芸術家デューラーの作品を題材にして俳句化することで、俳句をデューラー銅版画に匹敵する芸術にしようと試みたのである。

おわりに

こうして草田男は、連作俳句「騎士」において、自らを蜥蜴にたとえることで「ホトトギス」への訣別を告げ、虚子を騎士にたとえて戦時中でも屹立した姿勢を保つよう期待したのである。そしてそのような虚子をじっと見つめる茅舎の化身として骸骨がいると詠んだ。ただし、戦時中そのような気持ちは公にできるものではない。それゆえデューラー版画に託して表現したのだろう。

草田男がもう一度デューラー銅版画を37句もの連作俳句で詠んだのは30年後のことだった。それは晩年の草田男自身を表した大作「メランコリア」だったのである。草田男は俳人人生の重要な曲がり角で、デューラー銅版画を詠む連作俳句を作ることで、自らの心情を表現したのである。


i
アルブレヒト・デューラー《騎士と死と悪魔》1513年、エングレーヴィング、24.6 ×19.0cm、国立西洋美術館所蔵。
Cf.『アルブレヒト・デューラー版画・素描展 ―宗教・肖像・自然―』国立西洋美術館、2010年264-267頁。

ii
草田男は重要な自作俳句を解説する「自句自解」を書いているが、この作品には版画の図版が挿入されているので、その必要なしと記している。
『中村草田男全集6』みすず書房、1985年、314頁。

iii
中村草田男「騎士」『来し方行方』昭和22年(『中村草田男全集2』みすず書房、1989年、116-121頁。)

iv
芳賀徹「「Ⅳ切通し」への道 2草土社の周辺―劉生から草田男へ」『絵画の領分 近代日本比較文化史研究』朝日新聞社、昭和59年、597-622頁。
芳賀徹の大著の他に以下の論文もある。由良君美「夏山の騎士―草田男の連作―」『萬緑』34巻3号、昭和54年、10-13頁。

v
『アルブレヒト・デューラー版画・素描展 ―宗教・肖像・自然―』(106図)、148-149頁。

vi
草田男と茅舎の友情については以下を参照されたい。余寧金之助「草田男と絵画」『萬緑』32巻1号、昭和52年、19-23 頁。

vii
芳賀徹、前掲書、606頁。

viii
拙論「帝国都市ニュルンベルクとデューラー《カール大帝像》と《ジギスムント皇帝像》をめぐって」『山形大学紀要(人文科学)』第12巻1号、1990年、1~33頁。

ix
『川端茅舎全句集』角川ソフィア文庫、令和4年、10頁。(中略)は筆者による。

x
同書、206頁。

xi
『中村草田男全集13』、みすず書房、1986年、369頁。

xii
宇多喜代子『ひとたばの手紙から 戦火を見つめた俳人たち』角川ソフィア文庫、平成18年、120-135頁。

xiii
句集『来し方行方』が発表されたのは昭和22年だった。

xiv
芳賀徹、前掲書、581-622頁。

xv
同書、613頁。

xvi
「現代俳句の問題」『中村草田男全集12』、みすず書房、1984年、199頁。

xvii
「俳句事件」昭和28年10月26日座談会(『中村草田男全集13』みすず書房、1986年、366-367頁)。

xviii
草田男は小野蕪子以外の「先輩たち」の名をはっきりと述べてはいない。草田男への圧力は「京大俳句事件」のように特高が検挙するほどはっきりしたものではなかった。「嫁いびりみたい」と述べられている。

xix
桑原武夫「第二芸術」『桑原武夫全集5』朝日新聞社、昭和43年、13-29頁。