大井恒行句集『水月伝』一句評
👤井口時男
赤い椿 大地の母音として咲けり
「大地の母音」。負けた、やられた。この一句、私が書きたかった。
柳田國男に倣っていえば、まぎれもなく、「椿は春の木」。名にし負う雪国育ちのわが少年時代の体験の全重量に賭けて肯う。この大地は至る所に残雪残る大地である。その大地が春の到来を告げる力強い第一声として咲く椿。まさしく母音だ。しかも「あ」だ。冬にすぼまっていた口をいま大きく開けて発する母音の王だ。ランボーなんぞを参照する必要もない。フランスのガキが日本の雪国を知るはずもないからだ。ほんとうは「赤い」とことわる必要さえない。白い残雪に映えるのは赤に決まっているのだ。さらに言う。「赤い椿 大地の母音」。意味とイメージの鮮烈さだけを重視するならこれだけでよい。だが、これは俳句である。鮮烈さをもっさりとした定型律でくるむのが俳句なのだ。だから、「として咲けり」を削って余計な情報を入れたりしてもならない。これでよい。
「雪椿」は新潟県の県の木だそうだ。だが、私が少年だった昭和30年代には「雪椿」なんて聞いたこともなかった。いま調べたら「県の木」に指定されたのは昭和41年(1966年)のことだったそうだ。さもあらん。豪雪地帯の少年にはすべての椿が雪に咲く椿だったのだ。
👤なつはづき
団塊世代かつて握手の晩夏あり
日本には握手の文化がない。ビジネス等の場面でも滅多にしないので、握手は本当に親しい者同士が交わす「親愛の印」だ。
大井氏も団塊世代。結束もあるが喧々諤々の議論や時に喧嘩もあっただろう。「かつて」は「今はもう」の裏返しだ。かつての仲間は一人抜け、二人抜けという現実。晩夏の汗ばむ手のひらを見つめ、かつてこの手が誰かと繋がれていたことをふと思う刹那を切り取った一句である。
句集には「手」の俳句が結構ある。一例として【揺れているこの世の手には地震の風】【万歳の手のどこまでも夏の花】【雨を掬いて水になりきる手のひらよ】【手を入れて水のかたさを隠したる】手は単に生命維持のための機能を持った体の一部ではなく、目に見えざるものと繋がる感受装置として作用している。この握手はかつてした誰かとの握手であるのと同時に、団塊世代として生きた時代そのものとの握手でもある。
団塊世代は戦後日本の復興、成長と歩を同じくして生きてきた人々である。句の実景としての晩夏であると同時に、彼らの人生における「晩夏」でもある気がするのだ。例えば高度成長期(1955年~1973年)を灼熱の夏と考えると晩夏はオイルショック以降であろう。団塊世代は20代後半に差し掛かっている。もう一つの盛夏、バブル景気の終焉は1991年。昭和が終わり、平成3年の事だ。団塊世代は40代半ばである。もしかしたらこの時期の方が掲句としての実感はあるかもしれない。昭和という時代が終わり、実年齢的にも壮年から中年の頃、あの頃を支えた手がまだ熱を覚えている。今もその熱を求め続けているのかもしれない。
👤羽村美和子
落葉「スベテアリエタコトナノカ」
〈落葉〉、上五が3音という不安定さ。その不安定さは足りない2音以上の余韻を取り込み、広がってゆく。そして下句の息を吞んだ独り言のような言葉へ繋がる。「落葉かな」と整えてはダメだ。「ba」の音を巧みに響かせている。大井恒行の感性の良さが光る。
下句に、原民喜の『夏の花』を想起する。広島へ原爆が投下された直後、市外地へと避難する時見た光景。「ギラギラノ破片ヤ/灰白色ノ燃エガラガ/…/アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム/スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ/…」。このカタカナ書きの詩のような挿入文が立ち上がる。
〈溶けたのはガラスのうさぎ 鳥 魚〉〈汝と我不在の秋の陽がのぼる〉句集中の例えばこれらの句とも呼応して、平和や命への深い祈りとなってゆく。
折しも戦後80年、出るべくして世に出た句集。受賞を心よりお祝い申し上げる。
👤高橋修宏
ありがたき花鳥(かちょう)の道や核の塵
無季俳句を含む『水月伝』一巻は、すぐれてアクチュアルな批評精神に貫かれている。だが、それは直截な社会批判などではない。いったん俳句形式を脱構築させながら、自らの批評性=思想性を埋め込み、言葉の歴史性や精度を量りながら表現として成立させること。そこには、大衆的に馴致されてしまった俳句表現とは異なる、もうひとつの書記の深度が刻印されているのだ。
なかでも一句は、大井の俳句表現の骨格を知るうえで欠かせない作品。もちろん「花鳥(かちょう)の道」とは、かの虚子が極楽の文芸と呼んだ花鳥調詠のこと。その背後には、〈地獄〉の裏付けがあると虚子は説いたが、周到にも彼は〈地獄〉それ自体を指し示すことも詠むことも避け続けてきた。この一句において大井は、その先にある〈地獄〉の実相をリアルに露呈させようとしているのだ。「ありがたき」という痛烈なアイロニーと、いま取り合わされた「核の塵」——。
永久に消えがたい爪痕を刻み、また未来への負債となり続ける「核の塵」は、まさにわれわれが忘却しがちな、いや忘却しておきたい〈地獄〉そのもの。この異和をはらんだ取り合わせによって、守旧的な俳句意識を蝕む無思想性、さらに鈍感ささえも鋭く問いなおしている。