「俳」雑感
👤岡村知昭
女性の役者の肩書が「女優」ではなく「俳優」となるのは、だんだんと当たり前になっているようだ。
私は古い人間なもので、最初耳にしたとき「え…?」となってしまったが、慣れてしまえば、どうということもない。
思っていたより早く慣れたのには、自分でも驚いている。
もちろん、いまだ変化に慣れない人もいるのだろう。
なぜ、これまでの言い方をわざわざ変えるのか。
そのような不満がでてくるのも、頷けなくはない。
だが、よく考えてみたら「俳優」はいろんな種類の人物の姿に成り代わる職業。
まさに「人にして人に非ず」の職業。
そう気づいてしまえば、今まで世間のジェンダーバイアスを易々と持ちこんでいたのが、むしろ無粋だったのだ。
いやはや、自分の気づきの遅さを痛感するばかりだ。
ちなみにポルノグラフィの領域では「女優」「男優」の言い方が生き残っているみたいだ。
ジャンルの特性によるもの、そう受け止めるほかない。
それにしても、である。
「俳」は私にとって身近な存在である。
俳優の「俳」は俳句の「俳」、俳人の「俳」でもある。
俳句をなんとか書き続けてきた私も「人にして人に非ず」なのかも…そう思うと、何とはなしに書き続けていく勇気が湧くのを感じる。
もしかしたら、先人たちも「人にして人に非ず」の心から生まれる言葉に自ら励まされながら、懸命に生きてきたのかもしれない。
「『俳』とは何か」との問いは欠かせない。
同じように、今ここで自分が「『俳』を生きる」との決意も欠かせないのかもしれない。
欠かしてはいけないのかもしれない。
続けよう。
「人にして人に非ず」とは、自らが自らに対して用いる言明であり、他人相手に用いるなどは、もってのほかのはずだ。
しかし、古今東西、その戒めは破られ続け、そのためにどれだけの犠牲がもたらされたのか。
最近、またもや「俳」ならぬ「排」の横行が煌びやかな装いで立ち現れつつあり、気味が悪くてしょうがない。
人偏と手偏、その違いからくる字の違いだけでは済まない。
「排除の論理」にこだわるより「人にして人に非ず」の心で生きていければ…そのせめてもの望みを、私は決して手放したくはない。
これからの人生、どんな役がまわってくるか、まだわからないだから。
にんげんにせめてもの百日紅かな 知昭
岡村知昭(おかむらともあき)
1973年生まれ 滋賀県近江八幡市在住
俳誌「豈」「狼」「蛮」所属
句集に「然るべく」(草原詩社)、共著に「俳コレ」(邑書林)