青芒
👤伊藤淳子

来(こ)し方(かた)を映して春の水たまり
三日月の暮れゆく空が少し甘い
麦畑この淋しさの一人分(ひとりぶん)
ページめくる時の逡巡鳥雲に
わが地図を開けばふいに黒揚羽
水辺かな風の余韻の青芒
人形も年古りてあり明け易し
白桃にうすき傷あり口ごもる
昭和百年水の匂いの野に遠く
茫と晩年立ち止っている昼月

伊藤淳子「青芒」10句鑑賞
👤石倉夏生

▶来し方を映して春の水たまり

当然、来し方とは年齢の歳月そのものであり、人生の喜怒哀楽のすべてが縦列に記憶されているに違いない。
水たまりに映るそれはどんな光景か。
時代の早送りか、それとも心象風景か。
いずれにせよ、シュールな感性で虚の光景を書き上げている。

▶三日月の暮れゆく空が少し甘い

ドラマのラストシーンのような雰囲気がある。
表出の主眼は「空が少し甘い」の措辞にある。
甘さを感知した、つまりは作者の心理に甘さが揺曳しているということであり、それを反芻しているのかも知れぬ。
満月ではなく細い三日月が奏功している。

▶麦畑この淋しさの一人分

間もなく刈り取られる麦畑。
その光景を眼前にして心情を述べる。
単なる寂しさではない。
限定された「一人分」の措辞に、逆に途方もない深さの寂しさを意識させられる。
熟れ麦の独特な匂いの中に佇む作者の孤影を、二句一章で整えている。

▶ページめくる時の逡巡鳥雲に

ミステリアスな感触の句である。
何のページかは読者に任されている。
次のページに視線を移す瞬間のためらいを、躊躇ではなく、逡巡の言葉で書いている。
読み継いできた内容に、逡巡の理由が、重く潜んでいるのであろう。
不可視の「鳥雲に」が巧妙。

▶わが地図を開けばふいに黒揚羽

まず「わが地図」とはどんな地図か。
単なるメモ風の手書きの地図か、それとも作者だけが到達できる過去への地図か。
想像は膨らむばかりである。
とにかく開けば黒揚羽の飛び立つ、不思議な立体的な地図なのだ。
異次元の気配の漂う奇妙な味わいがある。

▶水辺かな風の余韻の青芒

表題の一句である。
結句に多用する切れ字を冒頭に据えてイメージを大きく膨らませ、以下のフレーズを補強している。
目を細めるような心地よい光景が顕現し、読者もその余韻に浸る。
もしかすると、この「余韻」とは作者の人生の余韻かも知れぬ。
   
▶人形も年古りてあり明け易し

この人形も作者と共に加齢をつづけたのであろう。
室内の一点を凝視しつつ、実は、作者以上に家族のすべてを見聞して熟知しており、白んできた明け方、視点を一点に戻して、古びた人形のポーズに戻るのかも知れない。
「明け易し」の語感が効いている

▶白桃にうすき傷あり口ごもる

一度二読三読。
くり返して読んでいるうちに、この白桃の現実味が薄れて、唐突に作者の魂の比喩かも知れぬ、と思えてくる。
そう思うと傷を負いつつ癒やしつつ、過ごす人生が仄見えて、イメージが際限なく広がるのである。
「口ごもる」がそう読ませるのであろう。

▶昭和百年水の匂いの野に遠く

まさに今年が昭和100年。
この歳月に私たちの人生のすべてが内蔵されている。
終戦から丁度80年、激動の歳月を過ごして来たのである。
平成令和と元号は変わって、私たちは昭和を引きずっており、「水の匂いの野に遠く」の静謐なフレーズに癒される。

▶茫と晩年立ち止っている昼月

晩年に至る茫漠たる来し方の歳月。
作者の作句の意図の有無にかかわらず、この作品のイメージはメビウスの輪のごとく冒頭第一句の来し方に連環する。
昼月と共に立ち尽くし、来し方を見詰め、逆に来し方に見詰められているのであろう。


言葉を整えて簡潔に組み立てた俳句は、その言葉のみで屹立しており、夾雑な他の言及は不要なのかも知れない。
従って以上の十句に添えた一文は、一読者の一観点に過ぎない。