「あんぱん」編
👤今井浩嗣
最近、朝ドラの影響も有って注目を浴びているアンパンマンの作者、やなせたかしに所縁の地、高知県南国市を中心に、朝ドラのロケで使われた撮影地等も絡めながら、高知県内のちょっとマニアックですが、俳句を愛好する人々なら楽しめそうな場所を、紹介させて頂きます。
ただ私自身が基本的のテレビを見ないもので、ドラマをご覧になっている方が読まれると、不自然に感じる部分も有るかも知れません。
ただ、あくまでもドラマはフィクションの世界で、本稿に書いている事が事実になりますので、その辺りの差については、ご容赦ください。
1. 紀貫之邸跡
土佐日記懐にあり散る桜 虚子
南国市立国府小学校から東へ300メートル程度進んだ所の南側の、比較的に長閑な田園風景の中に、土佐国の48代目の国司、紀貫之の邸跡があります。
そして、この場所の近くの健脚な人なら歩いて行ける範囲に、旧国府跡、国分寺といった古代日本に於ける地方の重要施設の跡も残っていて、かつての土佐の国の中心は、この辺りだったと判ります。
その様な事を思いながら、この紀貫之邸跡で風に当っていると、意外にも心地が良い風が吹いていて、やはり江戸以降の経済活動を中心とした街作りとは違った感性で、場所が選ばれていたのだろうなと感じられます。
現在では「紀貫之邸跡」の名称で呼んでいますが、引田虫麻呂に始まるとされる歴代の土佐国の国司は、450年の間に128人が数えられており、その多くが、この地で暮らしたと思われます。
そういった事実が有るにもかかわらず、歴代の国司の中でも紀貫之が抜きん出て著名であった為に、紀貫之邸跡の名前で呼ばれている様です。
また、現在では南国市によって「古今集の庭」の名称で、古今和歌集の選者であった紀貫之にちなみ、和歌32首をその歌に合わせた草木と共に掲示すると同時に、「曲水の流れ」などを配した平安朝をテーマとした庭園も作られています。
紀貫之が当地へ赴いたのは、60歳を過ぎた頃の4年間で、30歳代で醍醐帝の勅命で『古今和歌集』の選者の栄誉を受けた、当代随一の歌人の処遇としては、遠流の地の国司という地位は、かなり厳しいなと想像されます。
ただ、その様な処遇の為に、現在に至るまで『土佐日記』という書物が残され、私達が楽しむ事が出来ている事実は、当時の何らかの迷いによる任命に感謝すべきなのかも知れません。
何より紀貫之が選をした『古今和歌集』自体が、長い間に亘って日本の教養の大きな柱であった関係も有り、その『仮名序』も書いた選者の、同じく仮名で書かれた『土佐日記』も中世以降、和歌を中心とした国文学の世界で研究対象とされてきました。
その様な意味を持つ『土佐日記』の始まりの地としての重要性も相まって、この場所が、この様に整備され、現在まで残される事になっています。
邸跡には高浜虚子の句碑をはじめ、沢山の石碑が建てられています。
その中でも一番古い石碑は、寛政元年建立の碑で、碑表の題字は、土佐藩第9代藩主で名君の誉れも高い山内豊雍の手によるものが、「紀子𦾔跡碑」と篆書で彫られています。
また同碑文には当時の歌壇の第一人者の権大納言日野資枝の和歌、
あふく世にやとりしところ末遠くつてへむためとのこすいしふみ
も刻まれています。
この石碑が建てられた頃から、本格的にこの場所の保存活動が開始された様ですが、まだ石碑を建てた程度でした。
そういった中で、地元の人々と行政が、手を取り合って発展させざるを得ない事件が起こります。
明治40年に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が高知へ行啓された折に、この地に寄る予定になっていたものが、急遽の予定変更で、東宮侍従の有馬純文子爵が代臨した事です。
この事件を切っ掛けに、公園化が進み、現在の様に訪れて一時の滞在をしても、気持ちの良い場所へ整備されて行った様です。
さて肝心の高浜虚子の句碑ですが、昭和19年の4月に虚子の古希を記念して建立された碑で、昭和6年4月にこの地を訪れた虚子が詠んだ、
土佐日記懐にあり散る桜
の句が刻まれています。
他にも2番目に古い、大正9年建立の「千載不朽」の碑の題字を書いた人物の肩書にも興味をひかれます。
現代の私達からすると、殆ど寿限無の親類の様な感じですが、ここの記しておきましょう。
「麝香間祗候陸軍歩兵少佐従三位勲三等功五級侯爵山内豊景題額」
比較的新しい平成に建てられた石碑として、紀貫之の直筆を写したとされる「月」一文字の石碑も有ります。
この文字の本歌は、高知県幡多郡大方町の伊田地区に在った松山寺に伝わっていたとされる桐の板で、先に書いた「紀子𦾔跡碑」の建立に尽力した当時の土佐藩の幡多郡奉行が、同碑に和歌を寄せた日野資枝に鑑定を依頼し、紀貫之の真筆とのお墨付きを頂いたとされる一文字です。
風を感じながら、石碑の一つ一つを見ていると、時間があっという間に過ぎてしまう様な、場所です。
機会が有れば、是非一度訪れてみてください。
2.国分寺
お遍路の静かに去って行く桜 年尾
四国霊場第二十九番札所の国分寺の境内に建てられている平成6年建立の句碑です。
この俳句自体は、先述の紀貫之邸跡に在る虚子の句碑の、昭和19年の4月の除幕式に、父親の名代として参加した高浜年尾が、国分寺の境内で詠んだとされる俳句です。
なお、この年尾の句碑の除幕式には、虚子の孫で、年尾の娘にあたる稲畑汀子が臨席しています。
また、この句碑の除幕式の折に稲畑汀子が詠んだと言われる句の句碑も建立されていますので、紹介しておきましょう。
晴れてゆく早さに梅の匂ひ立つ 汀子
こちらの句碑は、残念ながら綺麗な苔の庭の中に建てられていて、裏に有る碑文を確認する事が出来なかったのですが、お寺の方に聞いたところ、父親の年尾の句碑の除幕式の時に詠まれた俳句だとの事でした。
また、除幕式に関して書かれている書籍にも、汀子が大地震災害後の神戸から来られた旨が書かれていますので、時期的にも合っており、除幕式の連鎖のよる句碑と判断して、間違いないと思われます。
来し方を行く方を草朧かな 靖子
この高浜虚子の五女、高木靖子の句碑も国分寺の境内に在り、兄の年尾の句碑に先立つ昭和59年の11月に建立されています。
こちらの俳句は、昭和57年5月に靖子が三度目の来高で、父親に所縁の有る紀貫之邸跡を訪れ、泊っていた国分寺までの道での景を詠まれたとされる俳句です。
ここにも書かれている様に、紀貫之邸跡から国分寺までは、歩くことも可能な距離です。
多くの偉大なる先人の句に、思いを馳せながら歩いてみるのも、楽しそうな気がします。
これらの句碑は、国分寺の境内に入って、納経所へ向かう道に沿って進んでいくと、順番に見る事が出来ます。
創建当時の場所からは、少し動いていますが、古代の土佐の雰囲気を残す名刹ですので、こちらも機会が有れば、是非訪ねてみてください。
3.琴ヶ浜
髙知へ日に日に近うなる松原つゞく 山頭火
高知龍馬空港から東へ車で20分程の場所、安芸郡芸西村に在る、東西約4キロに渡って老黒松の茂る砂浜で、月の名所としても有名で、中秋の名月の頃には「観月の宴」などの行事が行われます。
また、芸西村に所縁の有った坂本龍馬の妻のお龍と、その妹の君江の像があり、桂浜の龍馬像に向かって手を振っています。
朝ドラの中では「夢ヶ浜」という名前で登場し、成長した嵩と弟の千尋、朝田姉妹、パン職人のヤムおんちゃんが並んでかき氷を食べるシーンが、撮影されたそうです。
この琴ヶ浜に在る山頭火の句碑は平成5年の秋に建立されたもので、同句碑の下側に有る、山頭火の遍路日記の一部分を写した説明文で、山頭火が、この地を昭和14年11月9日に通った時の句だと判ります。
この句碑自体は、琴ヶ浜を背にした旧国道沿いに在ります。
車で行かれる場合には、琴ヶ浜の入り口の付近に在る「かっぱ市」という地元で取れた農産品などを売っている施設が有りますので、そこへ車をとめて、旧国道を3分程度東向きに歩いた場所の線路沿いに有ります。
山頭火が歩いた道と、同じ道を少しの間ですが、経験してみるのも良い思い出になる事と思います。
春潮の騒ぎて網を曳くところ 虚子
この虚子の句碑は、琴ヶ浜の海岸側の公園の様になっている場所に建てられています。
句碑の裏には平成2年の春に建立された旨と、この句が「昭和六年四月三日高浜虚子 室戸へ赴く途中琴浜に立寄りて作句」と記されている事より、この地で詠まれた俳句だと判ります。
なお、句碑の字は虚子本人のものではなく、書家で俳人の岡崎桜雲の筆である旨が記されています。
琴ヶ浜には、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の和食駅からも徒歩10分程度で着きます。
私も、今年のお正月の初日の出を、和食駅から歩いて琴ヶ浜へ行き、拝ませて頂きました。
その時に使った土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線も、やなせたかしに縁の有る鉄道で、同線の全ての駅について、やなせたかしがキャラクターを作っていて、各駅にその像がシンボルとして飾られています。
太平洋沿いを走っていて景色も素晴らしいので、一日乗車券を買って楽しんでみるのもお勧めです。