👤星野早苗
現代俳句協会年度作品賞2021年度受賞

棕櫚の皮
海はまだ輝き足りず合歓の花

棕櫚の皮風に落として梅雨に入る
近く来て寄らず過ぎけり花卯木
網戸澄む懐かぬ猫のなつかしき
読経の間見え隠れする金魚かな

「棕櫚の皮」5句を読む
👤なつはづき

▶海はまだ輝き足りず合歓の花

まだ、とあるのでこれから海は輝き始めるのだ。
朝の景だろう。
上五中七で「朝曇」「朝凪」という季語が想起されて景がしっかりと見えてくる。
そしてふんわりとした合歓の花越しに海が見えてくる。
まだ花も目覚め切れてはいないのだ。

棕櫚の皮風に落として梅雨に入る

棕櫚の皮を「風に」落すのである。
「風が」落すのではない。
梅雨入りの時の強い風の景だと思うが、丈夫な棕櫚の皮を落とされた梅雨もそんなことではびくともしない。
長くてしつこい梅雨と棕櫚の皮の取り合わせが絶妙である。

近く来て寄らず過ぎけり花卯木

この卯木は生垣だろうか。
卯木は下向きに花をつける。
花も見ずに俯きながらその家の前を過ぎた。
本当は寄りたかったのか語っていないところがこの句の魅力で季語の花卯木に託されている。
もしかしたら卯木の幹の空洞のように心に何も無かったのかもしれない。
人影なく花の美しさだけが残る一句である。

網戸澄む懐かぬ猫のなつかしき

懐いて欲しいのにその猫は飼い主の気も知らず網戸を引っ掻いていたのだ。
またはその網戸越しに出て行ってしまったのかもしれない。
今は網戸の傷みもなく越しの景色も美しい。
それなのに気持ちは晴れず、今はもうないものがことさら愛しい。
「澄む」は網戸越しの景色でもあり、猫に対する本当の気持ちに気が付いた瞬間の胸の内でもある。

読経の間見え隠れする金魚かな

自宅での法事だろうか。
普段聞きなれないお経に金魚もちらちらとこちらを見ている。
いやそれは錯覚で、眠さを我慢している意識の中をゆうらゆうら金魚が行ったり来たり、が本当のところだろう。
もう寝そう、もう寝てしまいたい…。
ユーモラスな一句である。

 


👤なつはづき
現代俳句新人賞2018年受賞

日曜日
指先を言葉に添えて水蜜桃

秋の蜂磨き足りない窓いちまい
キバナコスモス地球まるまる頭痛です
まだどこか痒い脱稿尺取虫
からすうり仮病のような日曜日

「日曜日」5句を読む
👤星野早苗

▶指先を言葉に添えて水蜜桃

柔らかく熟した水蜜桃の皮を剥いて差し出す指先。
水蜜桃を差し出すと言わずに、言葉に添えて「指先を」差し出すと表現したレトリックが一句を成立させている。
ちょっとした労いの言葉なのかも知れないが、それに添えて水蜜桃を差し出した満ち足りた時間が伝わってくる。

秋の蜂磨き足りない窓いちまい

秋の蜂が窓の外に来て止まった。
と、今まですっきり透明な存在に見えていた窓の曇りに気づかされる。
その瞬間、この「磨き足りない窓いちまい」とたっぷりと音数を用いて表現された窓の存在感こそが、秋の蜂の世界にふさわしく感じられたのだ。
「半透明の美学」の発見ではないだろうか。

キバナコスモス地球まるまる頭痛です

キバナコスモスは、葉の形などよく見るとコスモスではない。
コスモスとは種が違うのだが、暑さに強く丈夫でよく咲く。
オレンジ色の花色も強烈で、風に揺れるコスモスの風情とは大分異なる。
こんなものがはびこる現在を、「地球も頭痛を起こしそう」と捉えた批評性に共感した。

まだどこか痒い脱稿尺取虫

毎日机に向かっていたのではないにせよ、いつも原稿が心にひっかかっている状態ですごしてきたのだろう。
やっと書き上げて脱稿しても「まだどこか痒い」。
我慢できない痒みのように、あちこちに手を入れたくなってくる。
尺取虫は、原稿に向かう作者の姿勢だろうか。
すなわち、体全体を使って一歩一歩、さらに前進したいのである。

からすうり仮病のような日曜日

からすうりは真っ赤に熟れても食用にはならない。
その嘘っぽさは仮病に通じるところがあるかも知れない。
楽しいはずの日曜日が、「仮病のよう」に感じられた今日。
体は元気なのにどこへも外出できずに終った日曜日の、残念な感覚を書きとめた句だろうかと思って読んだ。