口語体と『俳句の来るべきもの』
👤編集部
『現代俳句』では「昭和百年/戦後八十年 今、現代俳句とは何か」を2025年の通年テーマに掲げ、その一環として協会役員のうち、副会長・理事・監事・事務局長の役職にある25人全員を対象に「私が推す『現代俳句』五人五句」アンケートを実施した。
結果は5、6月号の冊子版、ウエブ版で全面公開している。
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WEB現代俳句2025年7月号
5人5句選 人気の作者は誰?…作者別ランキング発表!
ここでは、アンケート結果について、特に二人以上から推された「高点句」に注目しつつ、「現代俳句と文体」という視点から若干の考察を加える。
前提として、文芸評論家、斎藤美奈子が『日本の同時代小説』(岩波新書 2018年)に掲げた以下の規定を参照したい。
この規定では、小説に限らず文学全般にかかわる本質的かる真摯な問題意識が反映されていると思われるからである。
小説は「何(WHAT)をいかに(HOW)書くか」が問われるジャンルです。
その伝でいくと「HOW(形式)」に力点があるのが純文学、「WHAT(内容)」に力点があるのがエンターテインメント。
むろんその境界線は曖昧ですが(後略)
冒頭の〈小説は〉は「文芸は」「俳句は」と読み替え可能だ。今回のアンケートのおおもとにある「現代俳句の現代性とは何か」という問題を考える際にも、現代俳句とされる作のWHAT(内容、テーマ、モチーフ)に着目する観点と、HOW(形式、表現、語り)に着目する観点のそれぞれが存在する、ということになる。
そして、「文体」というHOWの側に属する切り口で現代俳句を考えることは、現代俳句の「純文学性」を掘り下げることにもつながるだろう。
◆最高点句に共通する時代性
今回の「現代俳句」アンケートでは、「私が推す『これが現代俳句』5人5句」という質問に対し全員が5句を挙げ、延べ125句が選を得た。
この中には複数の選を集めた「高点句」が10句存在する。
これを考慮すると正味では105句が俎上に上ったことになる。
選んだ選者数を点数に換算すると、最高点は4。
同点で5句が並んだ。
蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
3点句はなかった。
このため、次点となる2点句として続いたのが以下の5句となる。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
雲秋意琴を売らんと横抱きに 中島斌雄
銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく 金子兜太
八月の赤子はいまも宙を蹴る 宇多喜代子
地下鉄にかすかな峠ありて夏至 正木ゆう子
ここで注目したいのは、4点を集めた句たちである。
実はこの最高点5句にはいくつかの共通点がある。
共通点の一つは、すべて昭和に作られた俳句であるという事実だ。
戦前3(赤黄男、窓秋、白泉)、戦後2(兜太、澄子)の別はあるが、いずれも昭和年間の実質62年の間に詠まれた句である。
これは2点を集めた次点5句がすべて戦後の作であり、平成作も含むという事実とある部分で対照的ともいえる特徴を示す。
今回のアンケートでも後半に現代俳句の「現代」をいつ以降の時点で線引きするか、という問題意識からの設問を設けた。
結果的に、現代を「昭和以降」とするか、「第二次大戦後」とするかで、回答者の意識が大きく二分される傾向が示された観がある。
その中で、回答者の指示を最も多く集めた作が、戦前/戦後の別ではなく、昭和の句という属性を共有していることは極めて興味深いが、ここでは深入りは避けておく。
◆5句が共有する文体
もう一つの共通点といえるのが、5句とも口語体と認められる事実だ。
白泉、澄子の2句は明治の言文一致運動を経て標準語化された口語の助動詞〈た〉が用いられている。また秋窓の〈白い〉は文語では「白き」、兜太の〈咲いて〉は文語では「咲きて」となる。
一方、赤黄男の句はことばの上では文語/口語の別は判然としない。
ただ、この作者には〈やがてランプに 戦場のふかい闇がくるぞ〉などの作もあり(もちろん文語体の句も多数あるが)、モチーフもろとも口語自由詩の世界へと連なる作と理解することが妥当と感じられる。
対照的なのは今回、2点を集めた5句である。
三鬼の切字〈や〉、斌雄の助動詞〈ん〉、兜太の動詞〈す〉、助動詞〈ごとく〉はいずれも文語表現である。
明確な口語調はゆう子の〈かすかな〉(文語調は「かすかなる」)のみで、喜代子の句は両様取り得る。
このような4点句と2点句の間の文体上の相違が、いかなる背景から生まれたのか。
先の時代性の問題と同様、それ自体、ひとつの論点となり得るが、やはりここでの深入りはしない。
ここでは最高点の5句が口語体で占められたことに議論を絞りたい。
より詳細に見ると5句のうち、澄子以外の4句は口語体であっても実は文章語的な表現といえる。
口語文法に則っているが、会話でそのまま語られる文体ではなく、文章として書き記される際の少し改まったスタイルといえるだろう。
これに対し、澄子の句は現代の会話に登場しても不自然でない純粋な口語的表現としての終助詞〈の〉を伴っている。
語り手が存在することを前提とする会話体のことばで一句を組み立てている。
現在、短歌の世界では口語派がむしろ多数となりつつあるという趣旨の言説がさかんに語られるが、その際に注目されているのは、むしろ語彙、文体とも「今の会話体をそのまま取り入れた」語りだろう。
これと「文語/口語が混然となった文章語体」での語りとが二大勢力として並び立っている。
それが現代の歌壇の姿なのではないか。
これに対して、俳句の世界は依然、文語体が主流とされる。
これが文語体と文章語体の別などを厳密に考察した上での言説といえるか少々心もとない。
ただ、日本語界隈で唯一文語が生き残る短詩系文学の世界において短歌が口語優勢の時代へとシフトしつつあるとすれば、口語調が基調の川柳はさておき、残る俳句の「来るべきもの」としての姿がいかなる形をとるかに注目が集まるのは必然とも言える。
それは俳句自身にとっても自らのHOWに関わる優れて根本的かつ純文学的な問題であるはずだ。
この問題を考える上で、現代俳句を自らの名に冠する集団の役員25人の集合的な「現代俳句観」が口語表現を優先させる結果となった事実はやはり軽いものではないだろう。
というのも、現代俳句という場合、多くの俳人は必然的に次に「来たるべきもの」としての俳句の姿を投影しているに違いない。
今回のアンケートも多くの参加者が俳句の「来るべきもの」のイメージを心の片隅に思い浮かべながら回答しただろうことが想像される。
これからの俳句が「口語化」の歩みをさらに進めていくのか、現代俳句を考える上で重要な論点となることは避けがたい。
協会内部はもちろん、俳壇的な枠組みを超えた次元での真摯な模索がいま求められているのではないか。
(敬称略 文責・柳生正名)