4.ジャンルの交差について
👤小野フェラー雅美(平林柳下)

現代俳句協会の会誌では、様々な他ジャンルの視点や敷延された俳句の形からの視点を紹介している。
23年4月の秋尾敏氏による「座の文学の再構築」、同年8月の二上貴夫氏による「其角について」は連句の視点から、同年同月の米川千嘉子氏による「短歌における季節の風景と人間」では短歌の視点から、24年5月の久保純夫氏による「連作俳句のことなど」では連作作品としての俳句からの視点が紹介されていて興味深かった。

私は短歌・俳句・連句を前世紀末から時を前後して始めた。
短歌を作り始めると上の句だけの方が座りのよいものがあり、新聞俳壇に投稿するとすんなり採用された。
俳句を始めると、これは連句の発句であった、というので、俳句を作れば連句も知らねば、と連句。
ところが、多くの歌人や短歌同僚からは、「俳句をすると短歌が乱れる」と聞き、俳人や俳句同僚からは逆に「短歌をした人は俳句はダメ」と聞き、連句の同僚からは「歌人や俳人に連句をしている事を話すと、別な目で見られるから、公言しない方がいい」と聞いた。
一体これはどういうことだろう?
実例を多く知っているからだろうか、それとも、あるジャンルの中だけにいると、自ジャンルを守るために他ジャンルを排斥したくなる傾向があるのだろうか?

ドイツに暮らすようになってから気づいたのは、HAIKUを知っている人は結構いても、詩作するドイツ人ですらTANKAという言葉を聞いたことがない実態だった。
万葉集以来の歴史を持つ短歌の伝統の方が長く、季語の背景には何百年も培われた短歌作品の過去があるのに、と思い、当時在籍していた短歌グループの主宰の佐佐木幸綱氏にドイツ語圏数か所での講演をお願いした。
彼の選による持統天皇から吉川宏志までの百首のアンソロジーを“Gäbe es keine Kirschblüten … Tanka aus 1300 Jahren“(『絶えて桜のなかりせば。。。1300年来の短歌』)と題してレクラム出版社より出版。
それをたたき台としてドイツ語圏5~6都市で分り易く話して頂いたのが2009年。

これが好評で2012年に文化省の後援でドイツ語圏講演が繰り返され、その企画を遂行する上でドイツ俳句協会(DHG)が強い興味を示してくれた。
俳句の五七五だけで表せない内容を短歌では下の句の七七を加えることで盛り込め、季語も前提ではないのが、今までの句作を違う形で広げることになる、というのが理由だった。
そうして短歌を知った句作者の中に、この本と講演に触発されて今は主として短歌を詠むようになった方が、今はDHGの会誌中の短歌欄を担当している。

DHG会員の中には俳句だけでなく、俳画、俳文、排写、短連歌、連詩(連句)などを並行して作る作者も結構多く、それらの作品は3か月毎に発行されている会誌に項目別に掲載されている。
また、この3月には愛媛大学で俳句研究各書を出版している青木亮人氏のオンラインによる英語の講義があった。
ドイツ時間に合わせた時間帯だ。
テーマは「室町時代の連歌」について。ミュンヘンのグループがオーガナイズしたようだった。

その様な、ジャンルを超えた試みの一例として、今回は非定型の短連歌作品を拙試訳を付して紹介する。
これは意欲的に様々な形の自作品を各地で行われる文化・手工芸品の市場(フリーマーケットとは少し違う)などで販売して好評な、ガブリエレ・ハルトマン(Gabrielle Hartmann)と、DHG役員のブリギッテ・テン・ブリンク(Brigitte ten Brink)との共同作品だ。
これは、後者による写真を背景に独特の雰囲気のあるカードとなっていて、私も折をみて使っている。

Diffuse Worte 写真提供:Brigitte ten Brink

Diffuse Worte
Ihre Hände
finden sich
     Gabrielle Hartmann

とりとめのない言葉
その手たちが
触れ合う
     ガブリエレ・ハルトマン

Diffuse Worte 写真提供:Brigitte ten Brink

versunken
in Mutters Erinnerungen
     Brigitte ten Brink

深い
母の思い出の中に
     ブリギッテ・テン・ブリンク

最初に挙げた様に、現代俳句協会は積極的に他ジャンルを紹介しているようで、ジャンルを跨って活動している堀田季何氏や生まれに関係なくマブソン青眼氏を受賞対象としている。
25年2月号には全国大会で実際の講演を聞くことのできなかった会員の為に坪内捻典氏の講演内容「俳句の未来」が紹介された。
これは、それとまた全く違った視点を提示する俳人もいることの証だっただろうか。
先に言及した佐佐木幸綱主宰の会誌に短歌も時々発表している彼が、公の場で、「連俳というのは、連ねていきますから、基本的に個人の感情を出してはいけないですね」「連句はやっぱりうまくいかない。もう古い詩型なんだと思いますね。」と言い切られたのにはいささか驚かされた。
が、このように強引な言説をする方はこの世界には結構多いのかもしれない。

上に紹介したドイツの二人はよく共同作品を発表している。この二人だけでなく、ドイツでは一つのジャンルに限らず、自分の詩作に新しい視点や感覚や広がりを齎すものを貪欲にかつ軽く、枠を作らずに試している俳句作者たちがいることは確かだ。
多くのジャンルでの詩作を写真やコラージュで他者と共に表象しようとする過程に、ジャンル間、パートナー間でせめぎ合う力があり、それが夫々のジャンルに新しい展開をもたらすらしい。

それで思い出したが、先に書いたドイツ語圏講演の各地では、中学と高校クラスの国語の授業で予め私が2時間続きの授業で生徒に短歌を作って貰っておき、講師に批評をお願いした。
すると、あるクラスで「作者はどなた?」と聞かれると、二人が立ち上がり、短歌作品を二人で一緒に作った、と答えたのだった。
学校教育課程に既に共同制作・共同思考が定着しているんだな、と感心してしまった。

朝一に湖に飛び込む裸かな 柳下