続・俳句は「体験」か「経験」か
👤有本仁政
Ⅰ はじめに
本稿は2024年1月のWEB版『現代俳句』創刊号「現代俳句管見記―俳句は「体験」か「経験」か」の続編である。
私は経験の文学としての俳句を目指すべきだと考え、そのためのヒントを探している。
前回は小川双々子と森有正の関係から稿を始めたが、今回は鈴木六林男と森有正のつながりから始めたい。
Ⅱ 鈴木六林男と森有正
小川双々子の句集『異韻稿』(現代俳句協会,1997年)の年譜によれば、鈴木六林男、佐藤鬼房、双々子は昭和30年に揃って『天狼』同人となっている。
また年譜には度々六林男の名が登場し、二人は親密な間柄であったと思われる。
鈴木六林男は俳論集『定住游学』(永田書房,1982年)で、俳句における体験と経験について繰り返し書いている。
つまり、重要なテーマのひとつと考えていたのだ。
「(森有正)が最も力を入れたのが経験と体験の区別であります」(「実作者の方法」1977年『定住游学』所収)という一文もあり、双々子と同じく森有正から影響を受けていることが分かる。
それでは、体験と経験の区別とはどのようなものなのか。
森有正著『生きることと考えること』(講談社現代新書,1970年)には、「われわれには、一つの経験しかない。
その一つの経験が体験的なものに凝固してしまうか、あるいは経験的なものに柔軟に開いていくか。
それは、その一つのものを、われわれが、その中でどういうふうに行為するかということによってきまってくると思うのです」とある。
「行為する」とは「俳句を書く」ことでもある。
書くことで未来に開いてゆく。
Ⅲ 六林男における「体験と経験」
六林男の言葉を拾ってみる。
①「僕は日支事変から太平洋戦争へ転移して行くなかでいくつかの戦場を経験し、それが加害者の立場から被害者への位置へ移行していくことも体験した」
(「人間について」1974年『定住游学』所収)②「今日の俳句は(中略)可視的、体験的なリアリティーのみを頼りにせず、むしろそれらを捨象して対象から一旦切り離したところから、作者の内部に構築された経験を表現しようとする。体験と経験を区別するのは、俳句のような短い詩型では経験は体験よりもより意志的としたいからである」
(「俳句のリアリズム」1975年『定住游学』所収)③「吹操(吹田操車場)も大王岬も、未熟な私の通過儀礼であり、約三十年前の体験であった。この体験をいかに経験に移行させるかであった。常に自然と機械と人間をカオスの状態において、俳句を書くのが私の作法でもあった」
(「定住者の思考」1979年『定住游学』所収)
※「吹田操車場(60句)」「大王岬(54句)」は六林男の群作④「書くという行為は、感性(体験)のアンテナがとらえたものを知性(経験)が、作品に移行することになる」
(「芭蕉の言葉について」1981年『定住游学』所収)
六林男は俳句を体験から経験に移行させるために身を削った。
そのままにしていると凝固してしまう戦争の体験を、自身の経験として戦後も俳句に書き続けた。
何をしていた蛇が卵を呑み込むとき 六林男
この句は、戦闘を経験した六林男ならではの視点である。
戦争から何年たっても、その「とき」は甦る。そんな痛みを伴って、六林男の身体を通過した言葉が、句に昇華している。
「戦争は書けそうにもなかったが、戦闘であれば書けると思った」(「季の無い俳句の背後」1978年『定住游学』所収)と記している。
Ⅳ 六林男の季語情況論
鈴木六林男は「僕と俳句のかかわりは、季の無い俳句からの出発であった」(「短い歴史」1975年『定住游学』所収)と告白している。
六林男は無季の句が多く、季語があったとしても歳時記的な使われ方をしていない。
その延長線上にあるのが季語情況論である。
まず宣言として以下の文章がある。
「僕にとって季語とは、環境であり、状況であり、さらにこれらよりも情況的である。言い方を換えれば、僕にとって季語とは、見える自然としての環境(状況)や見えない自然としての情況のなかから、わが季語情況論へ転移していく質のものである」(「壁の耳」1975年『定住游学』所収)
また、「ここ(大王岬)にある自然は吹操(吹田操車場)同様、歳時記にある状態の季題ではない。字づらは同じでも持っている内容は大きなちがいである」(「短い歴史」1975年『定住游学』所収)とも書いている。
一方、小川双々子は「私の俳句における自然。誰もが経験したにちがいない(しかし歳時記にはない)」(「火と水、そして―俳句の自然と私―」一宮市博物館蔵双々子自筆原稿・掲載誌不明)と書いている。
両者は補完し合うような文章で、「自然」というキーワードを読み解く必要がある。
六林男の捉え方は「自然は、季語や季題の情緒から離れて、人間の問題として鮮明によみがえってくる」(「自然の中から」1963年『定住游学』所収)ものであり、俳句を書く態度にもつながっている。
あくまでも人間を通しての自然、言葉を通しての自然である。
六林男の言葉を私なりに整理してみよう、もちろん季語は無くてもよい。
見える自然としての状況 → (季語) → 体験 ×
見えない自然としての情況 → (季語) → 経験 〇
気になるのは、六林男における状況と情況の使い分けである。
どの国語辞典も「状況・情況」の二つの表記がある。
注目すべきは『明鏡国語辞典(第二版)』(大修館書店)である。
「「情況」は、「情勢・内情・実情・敵情」などにおける「情(=心理的状況を含んだ、本当の姿)の意味合いをこめて、軍隊関係で好まれた」という記述があり、六林男の情況の定義としても使える。敵の心理的状況を摑むことは、生きるために必要だった。
六林男は季語をどう捉えていたのか、拾い上げてみよう。
①「その時の作者の情況によって季語は動きまわり、季語(物)を存在さす環境によって俳句(作者)は振り廻される」
(「壁の耳」1975年『定住游学』所収)②「「王国」は(中略)十年間の四季にかかわったことになる。しかし、発表するときには、冬の一日に統一した。都合のいいように季語を入れ替えた。私の季語情況論の実践としてそれを行った」
(「定住者の思考」1979年『定住游学』所収)
※「王国(77句)」は六林男の群作
六林男は俳句を書く上で、季語からはどこまでも自由なのである。
換言すれば、情況があってこその季語である。
Ⅴ AI時代の俳句
前回の論の最後に「経験の文学としての俳句が書けるのか」と書いた。
六林男の言葉「〝季〟の陥穽に踏みこまぬために状況としての見える自然や情況としての見えない自然を視る眼は、遠来者や観光者や侵略者の眼でなく、土着者の、生活者の、ゲリラの眼、そうゲリラの視座でなければならぬ」(「短い歴史」1975年『定住游学』所収)はひとつの指標となろう。
視つめられ二十世紀の腐りゆく 六林男
AIはディープラーニングを通して膨大な他人の体験を蓄積する一方、身体性や経験が無いところが弱みである。
同じく、現代人もSNSを通して他人の体験を消費するばかりで、経験したような気になっている。
だとすれば、AI俳句に対抗しうるのは六林男や双々子の方法論であり、これから一層重要な視点となる可能性を秘めている。
われわれとわかれしわれにいなびかり 六林男
「に」の使い方が絶妙である。
「我へ稲光が差す」、「我の中に稲光がある」、どちらともとれる。
いずれにしても「いなびかり」は未来を照らす光である、俳句の未来はまだ明るいと思いたい。
Ⅵ おわりに
炎える広場遠く来て退屈な父ら 六林男
喧騒や屋根を尖らす走る国家 六林男
1970年大阪万博で、六林男はこのような句も書いている。
今、句会に出しても違和感はない。
人類が進歩していないのか、六林男が不易なのか・・・