麦くん
菊山千月

市役所での仕事中に猫の鳴き声が聞こえてきた。
近所のおばあさんが野良猫の産んだ仔猫を処分して欲しいと持ち込んだらしい。
すでに我が家には1歳になるメスの猫がいる。
相性が悪かった場合を考え躊躇したが、今日貰い手がなければ保健所行きだという。
仔猫がメス猫であることを祈りつつもらうことにした。
不安からなのか仔猫はいつまでも鳴き止まない。

春雨の声かもしれぬ猫拾う 千月

家に連れ帰ってまもなく仔猫は姿を隠してしまった。
餌を食べた様子もない。
洗濯してしまったかもしれないと洗濯機を覗き、トイレでおぼれてるかもしれないと何度も確認した。
ごみ袋に隠れていたのを捨ててしまったに違いないと自己嫌悪に陥っていた三日目にやっと姿を見せた。
仔猫はオスだった。

二匹目を麦と名付けて杜若 千月

オスの麦くんはあっという間に先住猫の1.5倍の大きさになり、懸念していた通りのやんちゃ坊主に成長した。
カーテンをよじ登り、先住猫の上に乗り、そして人間の隙をついては脱走した。
網戸を破り、ベランダから飛び降りる。
確かに去勢手術をしたはずだが、ヤブ獣医だったか?
オスの本能はこれほどかとなかば諦めた。

猫の形になったので家出します 千月

10歳になった麦くんが、よく吐くようになった。
近所の獣医に行き胃腸薬をもらったが良くならず、みるみるうちに痩せてきた。
より高度な治療のできる獣医で、膵炎の注射を毎日打ったが体調は変わらない。
癌かリンパ腫ではないかという。
内視鏡検査をすれば病気の確定と治療ができると言われたが、抗がん剤治療をして伸びる寿命は6か月だと。
そこで通院は辞めた。

死に近き猫の寝息や十三夜 千月

ちいさなチュールを1日に2つ食べ、微かな命をつなぐ日々。
目に力がなくなり、それでも家から出たがったが、死に際に姿を消す猫の習性を知っていた私は、自力で出られなくなった麦くんを家に閉じ込めた。
どこかで一人きりで亡くならせることはどうしても耐え難かった。
夜中も不安で何度も息を確かめた。
私の子守歌に、尾を、揺らした。

亡骸は頑なであり冬桜   千月
麦くんの月面着陸して立春 千月

この世から脱走した麦くんは、今日も月で遊んでいる。 

菊山千月
1972年生まれ。愛知県在住。
現代俳句協会会員。「韻」同人