6月の愛媛
橋本 直
六月を奇麗な風の吹くことよ 正岡子規
身内に不幸があり、急遽愛媛に帰ることになった。考えてみると、6月に愛媛にいるというのは高校3年生の夏以来のことになるから、約40年ぶりということになる。わがことながらちょっと驚いた。さぞ蒸し暑いだろうと思ってはいたが、やはり暑い。松山空港から車で移動して大街道の繁華街に降り立つと、城山の麓に吹く風に、ほのかに海のにおいがし、ふと引用した句が浮かんだ。もろもろの喪のことは松山市内で済んだのだけれど、やはり実家のある八幡浜に寄らないというわけにはいかず、いくつかの用事を済ませに帰った。
八幡浜は松山から特急で一時間ほど南下したところにある、佐田岬という象の鼻のように細長い半島の根っこにあるリアス式海岸の入江にできた港町なのだけれど、ローカルな分け方で言えば松山は中予で八幡浜は南予。江戸時代に戻せば、久松松平の松山藩と伊達の宇和島藩という違いがあって、それぞれの幕末のありようが象徴しているように、殿様が違えば国風が違い、同じ県内でもかなり風土が異なる。そもそも、言葉からして違う。松山は漱石の影響でいまだに勘違いされているきらいがあるが、「ぞなもし」などという人は皆無でおおむね西の穏やかな聞き取りやすいイントネーション。比べて、八幡浜はいちいち言葉がきつい。なぜなら漁師の町だから、と昔もっともらしい理由付けを地元の友人から聞かされたことがあるが、ミカン農家も多いのだからそんなはずもなく、本当のところはよくわからないのだけれども、兎に角そのころはまだ町にだいぶ元気があって、たしかにおっちゃん達の日常会話が喧嘩に聞こえるような勢いがあったと記憶する。それなりに大きい魚市場では、高度成長期の人気映画「トラック野郎」の撮影なんかも行われていたことがあった。
ともあれ、松山が駘蕩とした雰囲気で大人の街であるのに対して、地元はどうもガラが悪く、いい大人がヤンキーくさいのだ。そういう気風と関係があるのだかないのだかわからないのだけれど、地元出身の偉人・有名人?をあげていくと、いかにも立派な、という正統派よりは、けっこうな変わり者が多いように思われる。古くは幕末の前原巧山や二宮敬作、あるいは明治の二宮忠八。前原は市井の細工物の職人であったのが、器用であるということだけで藩命で蒸気船をつくることを命じられ、ロクに資料もないところから色々学んで本当に作ってしまった人。二宮敬作はシーボルトの娘(稲)を預かって養育した蘭学者。二宮忠八は、空を飛びたい思いが高じてゴム動力の模型飛行機を独力で開発し、世界に先んじて動力飛行機を作ろうとしていた人。文学について言えば、ダダイストの詩人高橋新吉(佐田岬を象の鼻と詩に書いたのは新吉)に、新興俳句の富澤赤黄男。とはいえ、旅行以外で愛媛から出ることのなかった自分の親をみているかぎり、ありふれた保守的(たとえば新聞は地元紙と読売新聞)な人物であったから、思うようにならない(要は貧しい)地域で育って都会へ出てなにかを成そうとすると、普通ではないことしかやりようがないということなのかもしれないけれども、現象だけをとらまえてみれば、この変わり者を生み出す風土についての考察は、私的には興味深い。
さて、冒頭の正岡子規の句は、愛媛で詠まれたものではなく、東京でもない。そしてこの「六月」は旧暦なので、現行のカレンダーでは7月であって6月でもない。なぜ「六月」なのかというと、日清戦争に取材に出かけて帰りの船で喀血し、日本に帰ってからも病室で散々血を吐いて死にかけた子規が、どうにか死地を脱して須磨の保養院に入った時期に詠まれているから。つまり、自分の血の匂いの充満した病室で死にかけた状況から、動けるところまで健康を回復し、外にでて新鮮な空気を吸えるようになったその実感が子規にこの句を詠ませている。しかし、読者にとってもしこれが「七月を~」であれば、この句の良さは駄目になってしまうように思われる。実際、個人的に過ぎると思ったのか、子規は自選から落としているし、血を吐いた子規の面倒をみた碧梧桐と虚子も選句集で落としている。しかし、子規個人の事情を除き、現行の6月と読んでこそ、この梅雨の、まだ湿気と暑気に体がついてこない中で吹き渡る「綺麗な風」のあいまいな美が活きてくるのではなかろうか。
わりと時間ぎりぎりになった帰りの汽車に乗るためにタクシーで乗り付けた八幡浜駅のすみっこに、なぜか飾られている「壊れた椅子」があって、なんじゃこれはと思ったら、アニメ映画「すずめの戸締り」の物語の中の風景として描かれたのを記念して、作品内に登場するキャラクターを再現したものだという。見ていないのでよくわからないのだけれど、どうも扱いが哀れで、そのあたりが松山ではなく八幡浜なのだろうな、と思った。