ふくろふに深紅の手毬つかれをり
~加藤楸邨 句集『怒濤』より~
神田ひろみ
『怒濤』は71歳から81歳までの11年間の作品を、楸邨自身が句の配列まで気を配って自選した生前最後の句集である。集中の掲句は発表当時から注目されたが、評価は一定しなかった。例えば大岡信は「これは分かるかといえば分からない句だね」「あ、楸邨は面白いことをやった」①と承認する立場だった。一方、楸邨門下の川崎展宏は「一貫していただかない立場」②で、分からない句としてならば同時期作の「天の川わたるお多福豆一列」の方が「好き」と語っている。
もともと楸邨は、句業当初から「分からない句」の作者であった。
昭和14年「馬酔木」7月号掲載の「「馬酔木」座談会」の席上で、師の水原秋櫻子は「同人の作品のうちに難しくて分からないものが沢山あるという説が出た。ことに加藤君、石田君の句の中に難しいものがある。」「たとえば、鰯雲ひとに告ぐべきことならず 楸邨 など、季語の「鰯雲」が孤立していてその意味で一句全体がわかり難くなることがあるんじゃないかしら」③と指摘、楸邨の方はその一ヶ月後の「新しい俳句の課題」の座談会④で「読む人がわかるかわからないかという顧慮よりも、言いたいという、衝動の方が」先に立ってしまうと応じ、以後「難解派」と呼ばれてゆくのである。
楸邨の晩年の難解句の一つ「ふくろふに」の句を、句中の「つかれをり」という受身形の語から読み解いてみる。
蟻殺すわれを三人の子に見られぬ『寒雷』
人は来ず炎天の影踏まれ踏まれ 『穂高』
転校の子に泣かれゐる雪の中 『雪後の天』
燕の子仰いで子らに痩せられぬ 『野哭』
これらの「見られぬ」・「泣かれゐる」・「痩せられぬ」は楸邨自身と子を詠んだものである。「踏まれ」ているのは或る時の楸邨の姿である。鳥や動物を詠んだ受身の句も多い。
梟の憤りし貌ぞ観られゐる 『寒雷』
天の川鷹は飼はれて眠りを 句文集『沙漠の鶴』
雉子の眸のかうかうとして売られけり『野哭』
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる 『起伏』
狐を見てゐていつか狐に見られてをり『山脈』
最初の「梟」の句について楸邨は、「動物園にゆくたびに、梟の檻の前に佇んだのは、あるいは、自分の分身を見ているような気になったから」⑤と、梟を「自分の分身」と述べている。そして「夜になるとはげしく鳴く」「鷹」に「人間の気持にもかういふものがある」⑥と自句自註に書く。「雉子」「鮟鱇」「狐」、どれもその時々の自分と切り離せない存在として詠んでいる。掲句の「ふくろふ」も、実際の「梟」の形をとりながら、半ばは意識の上の楸邨自身に思われる。その楸邨が没年まで繰り返し詠んでいたのは、夭折の次女明子のことであった。
明子二歳なりしが俄に病みて死す
茘枝(れいし)熟れ萩咲き時は過ぎゆくも 『寒雷』
明子死す
末枯(うらがれ)に乗りて小さきは吾子菩薩『穂高』
雪夜の門夢のごとくに亡き子ゐずや 『山脈』
ふゆかげろふのひとまばたきに亡き子をり 書句集『雪起し』
幼くして喪ひし次女
わが下駄を履きたがりし子蝙蝠とぶ 『俳句』平成2年8月号
こうした句の続きに「ふくろふ」の句が生まれたのだと思う。そうして「手毬」が「深紅」でなければならないのは「「赤」の存在とは、ものの始めと終りの、不思議な在り方を示すものとして」「私の意識の底にかくれているものを暗示している」⑦いう楸邨の一文による。
いまも亡き子に深紅の手毬をつかれている私は老いた「ふくろふ」のようだよという句意、季語は1月1日生まれの明子のための「手毬」(新年)、と思う。
註①「俳句の円熟ー誓子・楸邨の近業」大岡信・川崎展宏対談「俳句研究」昭和62年8月号富士見書房
註② 同前
註③「「馬酔木」座談会」初出「馬酔木」昭和14年7月号
註④「俳句研究」昭和14年8月号
註⑤ 加藤楸邨著『達谷往来』昭和53年6月花神社
註⑥「俳句研究」昭和25年7月号目黒書店⑦加藤楸邨著「「赤」の発見」初出「小原流挿花」昭和56年4月