徳島県の句碑
上窪 青樹
徳島島は著名な俳人は少ないが、俳句熱が低いわけではない、いやかなり盛んと言っていいだろう。
県内には徳島県自慢の俳人の句碑が沢山あるので、私の思い出のある句碑に絞って、徳島の紹介をしてみたい。
●今枝蝶人 句碑
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今枝蝶人句碑(藍場浜公園)筆者撮影
明治27年の生まれ、教職に就き、大正6年に石楠に入り臼田亜浪に師事し後に最高幹部同人となる。昭和21年俳誌「向日葵」を創刊、昭和40年に新たに俳誌「航標」を創刊して主宰。
句碑は藍場浜公園内にある。この公園はJR徳島駅から徒歩5分ほどで、南は新町川、その南方には眉の如くに見える眉山が控える徳島市きっての公園である。この公園は最近ではマチ★アソビというコスプレや声優のトークショーなどで若者に人気のイベント会場ともなっている。徳島市は川に囲まれた水都であり、徳島城はこれらの川を外堀として利用していたが、その全体像がひょうたんに似ていることから「ひょうたん島」とも言われる。今ではこの川巡りを「ひょうたん島クルーズ」と銘打った遊覧船が出ている。約40分の観光で料金は保険料の600円と格安、徳島を訪れた際にはぜひお勧めしたいものである。
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ひょうたん島クルーズ 筆者撮影
句碑は
雛の日の雪淡く木に触れて降る 蝶人
(昭和60年作)
であり、豊かな抒情が柔らかな表現で表されている。航標創刊初期に句会でお教えを頂いたことがあるが、句に表れているとおりの柔和な人格の先生であった。
他に
松は実に潮鳴りの昼遠くなりぬ
鳴門公園(昭和31年作)
仏体の豊麗昏しほととぎす
如意輪寺(平成2年作)
などの句碑がある。鳴門公園の碑は渦を見下ろすように建てられており、現在では渦の上を鳴門大橋が跨いだ状態で壮観である。句は臼田亜浪の提唱した「17文字を広義に解し写実を通して現代の抒情を追求する」を実践しているといえるだろう。
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今枝蝶人句碑(鳴門公園)筆者撮影
●森遅日 句碑
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森遅日句碑(常楽寺境内)筆者撮影
た さながら きえ すがた
鳥わ多る佐那可楽帰依の寿可多なり 遅日
手許に「森遅日全句集」がある。昭和61年5月の句碑除幕式参列のお礼に戴いたもの。この中に
鳥渡るさながら帰依の相(すがた)なり
がある。昭和41年作だから、前年の昭和40年3月、向日葵の創刊主宰今枝蝶人が去り、森遅日が主宰になったが、石楠(臼田亜浪主宰)で研鑽し、共に最高幹部同人であった同志が、俳句の新天地へ渡ってゆくのを見送り、自身がその後を継がなければならない運命的なものを「帰依の相」に託したのではないだろうか、と勝手読みをしている。
碑は徳島市の西端に近い四国88ヶ所詣りの14番札所常楽寺(国府町延命)に昭和61年5月俳誌「ひまわり」「航標」「なると」の有志により建立された。建立当時はがらんとしていた碑も、今では豆黄楊、白鳥花などが垣をなして風格を増している。この常楽寺は庭全体が流水岩(むき出しの岩が流れているような状態)という珍しいもので、入り口には「人生即遍路」の種田山頭火の句碑もある。以前訪れた時には人なつっこい猫がたくさんいた。寺の方に聞くと「飼っているのではなく、餌も与えないのだが、朝になるとどこからか集まってきて遊び、夕方になるとどこかへ散って帰って行く」ということだった。猫に癒やされる札所でもある。
●高井北杜 句碑
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高井北杜句碑(藍場浜公園)筆者撮影
今枝蝶人の向日葵に創刊から参加し、森遅日の後を継いで主宰となり、俳誌名を「ひまわり」と改称した。私は昭和39年から師事したが、カリスマ性があり、徳島では未曾有の1400名の会員を擁していた。句は写実的で明るく、早くから現代仮名遣いを推奨した。句碑は全国にかなり建立されているが、藍場浜公園内の第一句碑
樫の葉に神が配りし春の雪 北杜
が最も印象深い。句碑は昭和57年5月に、西日本第二の高峰、徳島県自慢の剣山の自然石で、高さは台座も入れると2、40mほどもあり威風堂々としている。
少し余談に入るが、この句碑建立から3年ほどして、対面する形で先の今枝蝶人句碑が建てられたのは少し因縁めいてもいる。
●佐野まもる 句碑
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佐野まもる句碑(大山寺)筆者撮影
雪嶺となるべき明日へ鐘を撞く まもる
碑は徳島市から北西に約1時間ほどの別格二十番霊場の一番札所大山寺(上板町神宅)境内にある。 昭和52年5月海郷俳句会(主宰佐野まもる、現在は廃刊)が創刊25周年記念として建立したもの。大山寺は標高691mの大山の山腹450mに位置する、源義経が平家討伐の折、必勝祈願したともいわれている。年に1度「力餅」と称する大鏡餅を運ぶ大会もあり、県内外から沢山の参加者を集めている。
佐野まもるは水原秋桜子(馬酔木)の薫陶を受け、個性的な句をなして活躍した。俳誌「狩」の鷹羽狩行を指導したことでも知られる。昭和40年代の終わり頃、徳島県俳句連盟の選者であった先生に挨拶しようと近づいたところ、さっと立ち上がり、微笑みながら「青樹さんですね」と先に声をかけて戴いた。無名の若者を知っていてくれた感激は、その後どんなに力になったことか、懐かしい思い出である。句は大山寺を訪れて詠ったもので、的確な状景描写に、「明日は雪嶺」という美しさと夢を感じさせる抒情に溢れている。気に入らなければ梃子でも動かないという気骨に溢れた人であったと聞いた事がある。そういえば碑の形はまるで獅子が座しているようでもある。
●橋本夢道 句碑
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夢道句碑(藍住町総合文化ホール)筆者撮影
花茨釣れてくる鮒のまなこの美しき 夢道
夢道が藍住町に帰郷の際、生家近くの正法寺川で詠んだもので、夢道揮毫の書から写した句が、出生地の徳島県板野郡藍住町総合文化ホール敷地内に、高さ2.7メートル、幅2,2メートルの巨大阿波青石に刻まれている。
橋本夢道(本名淳一)は藍住町の藍問屋奥村商店に丁稚として奉公し、14歳の時、東京支店勤務となり、荻原井泉水の句に触発されて「層雲」に入会し、俳句を始めている。26歳の時荻田静子と恋愛結婚したことから奥村商店を解雇されているが、多彩な才能を買われ、輸入雑貨店や甘味処の経営などに寄与することになる。甘味処「月ヶ瀬」では
蜜豆をギリシャの神は知らざりき 夢道
と詠み、蜜豆を世間に売り出す大きな役目を果たしている。この句を電車の中吊り広告に用いたことなどでも知られる。
俳句の方はプロレタリア俳句運動に関わり、新興俳句弾圧事件に連座して二年間拘留された経歴もある。獄中での作に「うごけば、寒い」は人口に膾炙されている。
他に徳島県内では渦潮の見える鳴門公園に
母の渦子の渦鳴門故郷の渦 夢道
の碑がある。鳴門公園は渦潮が有名で観潮船も出るほか渦潮の眞上を歩くことのできる「渦の道」が好評、また間近には大塚国際美術館もあり、お勧めの観光名所である。
この句碑は鳴門山展望台に建てられたが、現在は周囲の木が茂り眺望は効かない。
夢道は無類の愛妻家で、「無礼なる妻」「良妻愚母」「無類の妻」など妻を詠んだ句集も多い。
妻よおまえはなぜこんなにかわいんだろうね
は季語も無く、直情過ぎて好みが分かれるだろうが、そんなことを気にせず思いのままに句を作るのが夢道の精神だったようだ。私の住む藍住町では、俳句愛好者により、毎年10月9日の命日の頃に「夢道忌俳句大会」を開催し、夢道を偲ぶと共に「夢道忌」が季語として定着することを願い顕彰活動を行っている。
わがふるさとをいくつかの句碑に纏わせて紹介したが、句碑にも命が籠もっていることを知った次第である。