うたた寝
川崎果連
うたた寝か昼寝か昭和百年目
おおらかに育てと祖父は武具飾る
国民の不断の努力だだちゃ豆
気がつけば国旗掲揚海の家
歩き回る専守防衛兜虫
昭和百年売春防止蝌蚪の国
八月の勃起を罪と思いけり
エリートの参謀本部毛虫焼く
夕焼や支給されたる手榴弾
昼寝から醒め一面の焦土かな
川崎果連「うたた寝」10句鑑賞
山戸則江
夢か、現か、ディストピアか?昭和の亡霊はまだ私たちの隣にいる。果連さんのにんまり細いやさしい目が見つめた、「昭和百年」連作。
▶うたた寝か昼寝か昭和百年目
戦争、高度経済成長、オイルショック、バブル経済・・・、昭和の記憶は世代によって様々だろう。「昭和」は、確かにそこに存在していたはずなのに、私にとっては年々、作りもののように現実感がなくなりつつあり、「うたた寝か昼寝か」と寝ぼけた頭を見透かされたようだ。「昭和百年目」の節目に、今こそ目を覚まさなくては。
▶おおらかに育てと祖父は武具飾る
子供の頃、祖父母は兄には勉学や将来等期待するところが大きく、私のことは「女の子は可愛いいねえ」という愛玩的な可愛がり方であるのをなんとなく感じていた。「端午の節句」の五月五日が「こどもの日」の制定されたのは昭和23年。武具が戦の道具でなく、無病息災を願う御守りになっている有難さを、「おおらかに育て」という祖父の願いから感じる。
▶国民の不断の努力だだちゃ豆
昭和百年、そして戦後八十年。戦後生まれは国民の約9割に達し、「自由」と「権利」は、最初からそこにあったかのように当然視、軽視されるものになった。終結せぬまま何年も続く他国の戦争で踏みにじられる自由と権利を横目で見ながら、日々をやり過ごす私たち。「不断の努力って何?」、「民主主義って、当たり前でしょ?」。自由と権利はいまや、食い散らかされる「だだちゃ豆」ほどの軽さか。
▶気がつけば国旗掲揚海の家
いつの頃からだろう、W杯やオリンピックで日本選手の躍進に熱狂するとき、人々はためらいなく、好き嫌いなく、良し悪しなく「日の丸」を掲げるようになったように思う。昭和、「日の丸」は今よりかなりデリケートな存在だった。あっけらかんと明るい「海の家」という季語。「気がつけば」が一人一人に投げかけるものが、実は重い。
▶歩き回る専守防衛兜虫
日本国憲法の公布は昭和21年11月3日。専守防衛といえば、「第9条」。一見頑強な兜虫も、バランスを崩してひっくり返ると、あっけなく命を落としてしまうという。「第9条」という楯を背負ったわれらが日本兜虫の歩き回る姿の、なんと危なっかしいことか。
▶昭和百年売春防止蝌蚪の国
今年の大河ドラマ「べらぼう」で描かれる吉原は、言わずと知れた公共遊郭である。GHQによる公娼廃止指令を経て、昭和31年の売春防止法施行へと、人類最古の職業ともいわれる「売春」は移り変わった。蝌蚪のぬらぬらと泳ぐ様は、なんとなく、わかりすぎるぐらいわかりますが、ちょっと狙いすぎ、かも?
▶八月の勃起を罪と思いけり
季語に男性名詞、女性名詞があったなら、「八月」は男性名詞だと思う。夏休み、お盆等「八月」が含むイメージは多いが、この句の「八月」はやはり戦争への思いを想起させる。性の確かな悦びを、罪と感じさせてしまうほど「八月」の哀しみは深い。
▶エリートの参謀本部毛虫焼く
「毛虫焼く」という季語を感興をもって使う俳人は多いと思うが、毛虫にとってみれば人間が行う明らかな殺戮行為である。かつて「エリート」の側から見た人間の命は、「毛虫」ほどであったのか。命のあまりの軽さに戦慄するが、これは決して過去のことではないのだ。
▶夕焼や支給されたる手榴弾
この世の美しさをすべて表したかのような夕焼と対極にある、この世の美しさを破壊するために存在する手榴弾のグロテスクさ。日本製の手榴弾「九九式手榴弾」はかつて、昭和16年から実に1,100万個も生産されたのだという。手榴弾が支給される時代が、もう二度とありませんように。
▶昼寝から醒め一面の焦土かな
日本の人口が今のまま減少を続けると、3300年頃には人口がゼロになるという推計があるという。「一面の焦土」とはなにか。昭和のあの頃は、人口動態と出生率に絶望する未来なんて予想もしなかった。すでに今の日本が、現代の「一面の焦土」なのかもしれない。