「転生」と俳句
佐孝石画

俳句は短い。短いから伝わらない、わからない。そんな文学形式がどうして今日まで愛され続けているのだろうか。

●「わかる、わからない」「わかりやすい、わかりにくい」

「わかる」って何だろうと思う。人は言葉を持ち、文字を持つ。それらを使って他者とコミュニケーションを取ろうとしてきた。つまり自分の頭の中にある意志・思考を、誰かに伝える行為、意思疎通。イメージの伝播、移植。しかし人の頭の中にある意思というものはそんなに明確なものだろうか。言葉や文字を使って手繰り寄せる作業自体、あたかも水の中で「藁をもつかむ」ような曖昧なものではなかろうか。

そもそも自分のこともたいしてわかっていないのに相手にわからせるというのはナンセンスな行為なのかもしれない。ナンセンス…

「わかる・わかりやすい」とはさまざまな修飾を用いながら、意思のディテール、表面を様々な角度から舐め回していった果ての風景。

●「言葉の終わり」

はたして人は「わかりやすい」世界を求めているのだろうか。

例えば「音楽」。歌詞のないメロディーはどうだろう。色も形も見えず、そこには言葉もない。しかし古代から人はその旋律に酔いしれてきた。そこにあるのはおそらく「理解」ではない。自分の中に眠っている「何か」を呼び起こすもの。そう、みんな自分のことを知らないから。自分が知らない、気づかなかった「何か」が呼び起こされるのを待っている。太鼓の打撃音なんかどうだろう。腹にずしんと響くその振動はいったい何を呼び起こすのだろう。

かつて作曲家クロード・ドビュッシーは「言葉で表現できなくなったとき音楽がはじまる。」と言った。ドビュッシーの言う「言葉」とは人が「理解できるもの」ということであり、彼が音楽に求めたものは「言葉・理解」を超えた体感的世界だったのではなかろうか。そういう意味では音楽にとどまらず、アート全般が「言葉の終わり」から始まるのではないかとも思う。

●「俳句と好奇心」

それでは言葉を使う俳句はどうか。わかる・わからないで言えば、「わかる」俳句ほどつまらないものはない。魅力的な俳句とは、即時に「理解」されるのではなく、読後に得も言われぬ余韻が残り、読み手の様々な感覚や経験が呼び起こされるもの。様々な角度から様々な知覚を駆使して、言葉の深淵を、また日常の狭間をさぐりつつ、俳句人は世界最短の詩を生み出そうとする。俳句の提示する世界とは読み手の「理解」を求めるものではなく、読み手に新たな風景・世界の「入口」を示すことではなかろうか。

「好奇心」とは我々を我々に馴染み深いものから解き放し、同じ事物を別のやり方で見ようとする熱意である。
ミシェル・フーコー『性の歴史』

「同じ事物を別のやり方で見ようとする」という視点は俳句の手法そのもの。フーコーの「好奇心」の解釈にある通り、人は日常の風景を常に新たな角度から見直そうとする欲深い生き物である。俳句という文学形式は、読み手の「好奇心」を刺激し、新たな感覚世界を呼び起こそうとするもの。

●「知は死」

かつて解剖学者の養老孟司氏は、自身の著書の中で「知るということは、自分がガラッと変わること。したがって、世界がまったく変わってしまう。」と語った。「知る」ことで昨日までと殆ど同じ世界でも風景の見え方が変わってしまう。この現象はそのまま俳句の求める世界に通じるのではないか。日常のありふれた風景をあたかもスナップショットのように切り取ることで、その被写体がオブジェと化し、異質で新しい世界が表出する。

この表現感覚に最も近いだろう歴史的美術作品を紹介する。1917年にニューヨーク・アンデパンダン展に出品された「泉」という作品である。       

 

作者はマルセル・デュシャン。彼は既成のものをそのまま、展覧会場に持ち込む「レディ・メイド」という手法で多くの作品を手がけた。この「泉」は普通の男性用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt 1017)」という署名をし、出品されたものだが、委員会の議論の末、会場に展示されることはなかった。

この作品についてデュシャンは次のように述べている。

マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。
彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。
そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ。
『THE BLINDMAN』(デュシャン、マンレイが編集した雑誌)第2巻1917

ユーモアやアイロニーを交えた作品だが、デュシャンの言う「新しい手段と観点」、「新しい思考」は、フーコーの「好奇心」、先ほど挙げた養老氏の言、そして俳句にも通じるものがある。

俳句も同様に、ありふれた日常から一部の風景を切り取ることで、読み手に新たな「知」を示す。読み手はその風景を「知る」ことで世界の見え方が変わる。そしてそこから「新しい思考」が始まる。

知は死。知らない世界を知ることでこれまでの自分は死に、新たな自分に転生する。言い換えれば俳句は、読み手にささやかな輪廻転生を提示する文学と言える。

●「転生」

ライトノベルという文学ジャンルが生まれて久しいが、そこで多く扱われるのがいわゆる「異世界転生もの」。現実世界で何かのきっかけで命を落とした後に異世界で転生するというストーリー。その物語に惹きつけられる読者が多いのは、転生願望を多くの若者が抱いている証拠であろう。一旦人生をリセットするが、これまで持っていた知識や技術、経験はそのままで再スタートできる世界。日常の波に揉まれながら、白日夢のように新世界への転移を夢想するのは決して若者だけではないだろう。

ライトノベルでは、主人公(多くが青年)が魔法や超能力など、これまでに加えて強大な能力を獲得していたり、スライムになったり、幼女になったりするが、いずれも現実世界以上のポテンシャルを有して転生する。そして転生後の異世界はおおむね現実より遅れた文明に設定されており、これまでの知識経験がアドバンテージとなるといった具合である。

本来現実世界では幾多の困難を乗り越えた末、ようやく手入れることの出来る成果を、転生することで簡単に得ることが出来る風景。これは現実に絶望しはじめた若者の「自己肯定」へのアナザーストーリーでもある。

この読み手が求める夢想、幻想を思うとき、そこに大きく関わってくる感覚が、共感であろうと思う。かつての勧善懲悪の英雄的な主人公でなく、強大な能力を有しながら、転生前の非力で頼りない自分をベースに立ち振る舞う、その心の葛藤こそが読み手にリアリティを持たせる。会話文を多用し、数多くの呟き、心の声を散りばめながら、ありふれた若者が異世界を泳ぎ切る姿を描く。この内面と現実の錯綜が共感を呼ぶに違いない。

田一枚植えて立ち去る柳かな
松尾芭蕉『おくのほそ道』

田植えを終えて立ち去る者は誰だろうか。一般的な解釈は、農夫が立ち去った後、その場に「柳」だけが残された風景。しかし、これが俳句ではなく、単純な文章だとするなら、その解釈はどうなるだろう。文の流れのとおり、田を植えて立ち去るのは「柳」ということにならないか。そうなると、「柳」のたましい、「意思」が農夫に憑依し、農作業を終えた後に「柳」の元の姿に戻るという世界が見えてくる。そう、柳の「転生」の物語だ。

この句のキャストには「農夫」、「柳」以外に当然、作者である芭蕉も入っているはずだ。

しかし、農夫も作者も言葉として表記されず、そこに表されたのは「柳」のみ。この説明不足は、読み手に奥行きのある想像力を掻き立てる。

むざんやな甲の下のきりぎりす
松尾芭蕉『おくのほそ道』
 

この句などは、かつて甲を被っていた武士の姿はなく、現在はその下に「きりぎりす」がいるという風景で、そのまま人から「きりぎりす」への転生の風景に見えなくないか。

●転生と「アニミズム」

夏草や兵どもが夢の跡
松尾芭蕉『おくのほそ道』

五月雨を降り残してや光堂
松尾芭蕉『おくのほそ道』

そのように見ていくと、兵が夏草に、五月雨が光堂に「転生」していくという見方も、決して穿ったものではないような気がしてくる。

私の師である金子兜太先生の言葉に「天人合一」という言葉がある。これは金子先生が晩年よく口にしていた「アニミズム」の思想を俳句造形に結び付けた、金子先生が思う俳句の理想の境地。アニミズムとは、生物・無機物を問わない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え。八百万の神という考え方が浸透した日本においては、非動物である「柳」や「夏草」にもたましいが宿るという感覚も少なからず存在したのではなかろうか。

金子先生は芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」をオマージュして次のような句を作った。

よく眠る夢の枯野が青むまで
金子兜太『東国抄』

芭蕉は「枯野」を駆け巡り、対して金子先生は枯野が「青む」まで眠って待つという自負。しかし、この非動物であり、背景である「枯野」と「青野」自体が、それぞれの作者の擬人化表現ではなかろうか。その意味ではこれらの句にも十分「転生」感覚は漲っているといえる。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
金子兜太『金子兜太句集』

梅咲いて庭中に青鮫が来ている
金子兜太『遊牧集』

銀行員が「烏賊」となり蛍光し、地上にあるはずの梅のまわりに「青鮫」が群がるという幻想。これらは「銀行員」や庭の「梅」を現実世界で見た際に、ふと幻視した感覚風景。この感覚、感触こそがアニミズムにも通じる「天人合一」の世界。

おおかみに蛍が一つ付いていた
金子兜太『東国抄』

この句などは、実際に見ることさえかなわぬ絶滅した「おおかみ」と「蛍」の共存。造形された虚構世界に違いないのだが、我々が決定的に目の当たりにするのは、孤高の「おおかみ」とその切なく柔らかな情念の象徴としての「蛍」の瞬き。「転生」とは言えないかもしれないが、まさに俳句で時空を歪ませて狼を甦らせていると言えないだろうか。ひょっとすると「おおかみ」も「蛍」も同一のたましいとして甦らされている世界かもしれない。

そこであらためて俳句の視点や、短さ手軽さを思う。短いから「わからない」。瞬時に分からないからこそ、現実とは違う新たな世界が、新たな「知」が生まれるのだと。

そもそも、「転生」にこだわらなくとも、俳句の視点、切り口自体、新たな世界の表出である。その風景が作者の理想世界でもあり、それが読み手の新世界として受け入れられる。

当たり前の風景があたりまえでなくなる。その新鮮さ、新しい「知」。生まれ変わり。

ここであらためて「俳句は転生の文学である」と述べさせていただく。

転生後目を開けられぬ柿若葉 石画

※俳誌『俳句十代』(編集人 川田由美子)257.258.259号に連載したものを補筆、転載