クオバディス
永瀬十悟
第74回現代俳句協会賞
転職のそちらの桜どうですか
花見茣蓙少し離れて線量計
麗かや病いただき飼ひ慣らす
試歩に逢ふ蝶と挨拶クオバディス
蟻の来て蜂の出て行く白牡丹

病の視座に見えてくるもの
小田島渚

▶転職のそちらの桜どうですか

オンライン句会では、桜の季節になるときまって開花状況を聞き合う。私の住む仙台はまだ蕾なのに、東京は満開、大阪は散り際と日本列島の長さをつくづく実感できるわけだが、そう聞かなくとも各地の桜の様子というのは、ニュースなどである程度は知っていることではある。わかっているのに、「そちらの桜どうですか」と聞きたくなるのは相手を想う心があるからであろう。「元気ですか。新しい職場には慣れましたか」。立ち入り過ぎずに気を配るやさしさは、青空へ滲むようにひらく桜そのもののように感じる。

▶花見茣蓙少し離れて線量計

東日本大震災から14年が過ぎた。震災10年目くらいまでは毎年3月が来るとまた振出しに戻るような感じで、常に「今年の3月」に震災があったような気がした。夏になれば、仙台のアーケード街に真っ白な七夕飾りが悲しみの声のようになって犇めいていた情景が脳裏に蘇る。時間が前に進んでいないように感じていたが、10年目をすぎたとある3月にふと時間が動き出したような気がした。しかし、まだ止まったままの方も多くいらっしゃるのではないかと思う。掲句は過去の句ではなく今が詠まれた句。原発事故の災害がごく日常となってしまっていることを忘れてはならない。

▶麗かや病いただき飼ひ慣らす

私たちは生まれたら最後、老いること、病むこと、そして死ぬことを避けることが出来ない。しかし、掲句はそんな仏教的達観ではなく、病に襲われた肉体から正直に出た詩の言葉である。抗い、拒絶することはまた別の力が必要であり、同時に苦しみも生まれる。肉体の出した答えは、病を謙虚に受け入れ、積極的に共存するということであった。麗かの季語から悩んだ末というより直感的にそう決めたと思われ、その柔軟性に勇気づけられる。

▶試歩に逢ふ蝶と挨拶クオバディス

試歩とあるから、長く床に伏せ、外出どころか歩くことすらままならなかったのであろう。「クオバディス」は、キリストの殉教後、暴君ネロによるキリスト教徒弾圧から逃げようとするペテロの前に現れたキリストに、ペテロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いかけた言葉である。キリストの答えにペテロは殉教を覚悟してローマに戻り、逆さ十字にかけられ処刑される。久しぶりに歩ける喜びの中に現れた蝶に、福音を感じ、「どこへ行かれるのですか」と挨拶した。掲句の蝶がただの蝶ではないのは、「合ふ」ではなく「逢ふ」の漢字が選ばれていることからも窺える。蝶は快方へ導く主なのかもしれない。

▶蟻の来て蜂の出て行く白牡丹

白牡丹の蜜を吸っていた蜂が、蟻が登ってきたので出て行った。蜂は蟻を嫌って去ったのではなく、蟻に場所を明け渡したのである。限りある資源を分け合う清らかさを感じさせるのは、白い牡丹の大らかな存在からくるものであろう。多様な生き物が地球に共に生きていけるのは、このような黙示のルールが守られているからであろう。この世界の黙示のルールは、病を得た視座によく見えてくるものに違いない。


 

詩の密度
小田島渚
第39回兜太現代俳句新人賞受賞
バルーン抱へ空吸ひ上ぐる蜜蜂
水浸しの地下室髪切る音ばかり
指のかたちした不都合もサボテンも
おほきな虹のしたに雨漏りの部屋
ピアニストの指に集むる詩の密度

「詩の密度」5句を読む
永瀬十悟

小田島渚さんが第39回兜太現代俳句新人賞を受賞されたとき、私は選考委員の一人として、「多様な読みのできる句が多く、スケールの大きな作品」と評した。今回の5句も、それぞれが短い中に深い世界を閉じ込めており、まさにタイトルの「詩の密度」を感じさせる。ここでは、「私はこう読んだ」ということを書いてみたい。

▶バルーン抱へ空吸ひ上ぐる蜜蜂

バルーンを抱えているのは誰か? 私は蜜蜂がそうしていると読んだ。蜜蜂がバルーンを抱え、空を吸い上げているという光景は、現実味こそないが、軽やかで幻想的。まるで絵本の一場面のようで、想像の風船がふわりと空に広がっていく。

▶水浸しの地下室髪切る音ばかり

浸水し水のたまった地下室で、聞こえてくるのは「髪切る音」だけ。ハサミの音が強調されることで、静寂と異質な空間が浮かび上がる。どこかシュールな気配に想像がふくらむ。「地下室」は黄泉の国で、現世に未練のある死者が髪を整えているのだろうか。

▶指のかたちした不都合もサボテンも

「指のかたちした不都合」とは何か? と考え込む。そこにサボテンが登場する。言われてみれば、指の形のようなサボテンがある。そして、不都合もサボテンも、どちらも棘のような痛みを感じさせる。日常に潜む感情のざらつきを、「指のかたち」という身体性で提示する。

▶おほきな虹のしたに雨漏りの部屋

空にかかる「おほきな虹」は、美しさや希望の象徴。しかし、その真下にあるのが「雨漏りの部屋」というのは、希望と生活の困難がひとつの風景に同居しているようだ。この世界の明るい部分だけでなく、その陰にある不遇の存在や悲しみを詩によって掬いあげる。

▶ピアニストの指に集むる詩の密度

ピアニストの指に「詩の密度」を集めるというイメージは、ピアノという芸術が「指」という一点に結晶することを鮮やかに描いている。けれども、ピアノの音は言葉ではうまく表しきれない。そのもどかしさは、詩にも通じる。見えないもの、聞こえないものを、なんとか言葉で表現しようとする。言葉の数ではなく、その密度で。その営みこそが、詩であり、俳句なのだろう。