五人五句アンケートに思う
五島高資
▶はじめに
今回、私に与えられた課題は、『現代俳句』での特集「昭和百年/戦後八十年 今、現代俳句とは何か」(私が推す「現代俳句」五人五句)と題した、現代俳句協会役員を対象としたアンケート調査結果の考察である。念のため、その質問項目を改めて以下に示す。
1.私が推す「現代俳句」五人五句選
2.現代俳句の「現代」を時期として捉えると
①昭和以降 ②第二次大戦終結後 ③平成以降 ④時期の限定はない ⑤その他(正岡子規以降など)
3.コメント
ちなみに、この調査の冒頭において、〈当協会(現代俳句協会)は「現代俳句」を限定的に定義し、その理念に従う者のみを受け入れる「閉じた集団」としての在りかたをよしとしていません。
正反対の「俳句自由」の開かれた精神こそを、協会の根本理念と位置付けているのです〉と述べられている。
従って、質問項目にある「現代俳句」の捉え方は、各人の考えに則ったものである。
その上で、あえて、現代俳句の「現代」については、俳句史的な区分なのか、そうではないのかが問われている。
まず、この「現代」について、アンケート参加者の64%がある時期以降を、36%が④時期の限定はないと回答している。
前者では、②第二次世界大戦終結後が最も多く、次いで①昭和以降、⑤として、新興俳句以降と正岡子規以降、その他の順となっている。
以上のように、今回の調査では「現代俳句」について「現代」を俳句史的に捉えている向きが多いことが分かる。
ところで、日本史における時代区分による「現代」とは、一般的には、第二次世界大戦後を指し、明治維新から第二次世界大戦終結までの時代を「近代」としている。
今回の調査で時期的区分を以て「現代」を捉えた方の中で、②第二次世界大戦終結後と回答した割合が多かったことは、日本史的な「現代」の捉え方が大きく影響しているのかもしれない。
しかしながら、④の「時期の限定はない」が全体の36%を占めていることから、「現代」が決して特定の時期以降といった俳句史的あるいは時期的な次元で捉えられない側面が少なからずあることを示している。
▶「現代俳句」という定義の難しさ
そもそも「現代」とは、例えば広辞苑での第一義として「現在の時代、今の世、当世」と説明されていることからも、ある特定の時期に規定されるものではないことに鑑みれば、どの時代にあっても現在ただ今に詠まれる俳句は全て「現代俳句」であるとも言える。
現代俳句協会について、金子兜太が〈現代俳句協会は「現代俳句」の協会ではない。現代の「俳句協会」である〉と主張したこととも矛盾しない。
つまり、俳句史的に「現代俳句」をきちんと定義するのが難しいことは、今回の調査結果からも明らかである。
〈私が推す「現代俳句」五人五句選〉の中に松尾芭蕉とその句を挙げた方が4人もいたこともその証左である。
秋尾敏氏もその一人であり、〈読者論に立てば、現代の読者に深い感銘をもたらし、その生き方に影響を与えた句はすべて現代俳句であろう〉という持論を現俳ウエブ5月号で述べている。
俳句が補完的文芸であれば首肯される意見である。
また、〈「いまを詠んだ俳句」が現代俳句である〉という、なつはづき氏の簡明な意見も時空を超える俳句形式の真髄を捉えている。
哲学的に考えると、過去から未来へと時が流れるというようなH・ベルクソン的な時間概念、あるいは、ただ今の瞬間にこそ過去も現在も未来も包摂されるとするG・バシュラール的な時間概念を考えるとき、私は、俳句の創作において様々な集合無意識に裏打ちされた詩的昇華を可能にするのは後者による時間概念が妥当のような気がする。
従って、現在ただ今が詠まれた俳句には「現代」を冠しても良いと思う。
もっとも、その「今」には過去も現在も未来も包摂されるのだから、あえて「現代」と付ける必要がないとも言える。
俳句史的な観点からは、「現代俳句」という区分は有っても良いと思うが、それは固定化された絶対的なものではなく、それを構成する俳句も「今」に応じて常に変化していくのであり、かりそめの概念として私はそれを捉えている。
だから四季の変化に「今」を捉えれば、〈「花鳥諷詠」はこれからもっと盛んになるであろう〉と喝破する星野高士氏の言葉(現俳ウエブ6月号)も腑に落ちるところがある。
例えば、松尾芭蕉が生きていた時代にあって、彼が発句を詠んだまさにその時は、芭蕉の現在ただ今であり、それはまさに彼を取り巻く「現代」の一点なのであり、「近世」といった時間区分は無意味である。
しかも、歴史的な時代区分に従えば、今がいつまでも現代であることはなく、いずれは過去の時代区分へと呼び名は変更される。
このことは俳句史においても例外ではない。
もちろん、「現代俳句」の「現代」を特定の時期以降と捉える考え方が無意味だと言っているのではない。
ただ、「昭和以降」「第二次世界大戦後」「平成以降」といった、歴史的時代区分を以て「現代」と考えるのは個人の自由であり、実際に今回の調査でも40%の方がそうした区分を是としている。
しかし、その中でも統一した見解はない。
最も多かった「第二次世界大戦後」という意見は、歴史的時代区分による「現代」の定義に重なっている。
例えば、筑紫磐井氏は、〈戦前の人間探求派(主として中村草田男、加藤楸邨)の社会性ある俳句が詠出され、彼らの影響を受けた社会性俳句が戦後派世代を中心に噴出し新しい俳句を生み出したのである〉(現俳ウエブ5月号)として、終戦による大きな時代変革と切り離せない「社会性俳句」を「現代俳句」の濫觴とする。
筑紫氏はこれを「戦後俳句史観」によるものと述べており、俳句と社会の関わりの中に俳句の「現代」を捉えている。
次に、⑤その他を選択した方々においては、単なる歴史的時代区分ではなく、各人の俳句観に依拠して、俳句の「現代」を、例えば、「新興俳句以降」「正岡子規以降」などとする意見が見られた。
例えば、堀田季何氏は、〈「馬酔木」独立以降(秋櫻子自身の意向は別として、「『自然』の真と『文芸上』の真」発表後、表現の潮流が「ホトトギス」から新興俳句に向かっていった)を現代俳句だと思ってきた〉と述べつつも、〈最近は、さすがに90年前の俳句を現代俳句と呼び続けるには限界がありそうだ、と思い始めている〉(現俳ウエブ6月号)と吐露し、近未来での新しい「現代俳句」が再定義されるのではないかと予見している。
▶新しい「現代俳句」の展開
最後に、柳生正名氏による〈俳句における今この時の「現代」を考える場合、「現代俳句=前衛俳句」の恒等式がなりたつ時代といえるのか〉(現俳ウエブ5月号)という問題提起について考えてみたい。
この問いの前に、柳生氏が〈かつて「現代俳句=前衛俳句」という恒等式が成り立つように思えた時代があった〉と述べているが、私も同じ感想を持つ。
それはまさに前述した、筑紫氏の「戦後俳句史観」による「現代俳句=前衛俳句」であって、戦後の一時期において社会性俳句や表現主義的な俳句などが、革新的な表現のもとに前衛的と目され、その時期が歴史的な時代区分としての「現代」と重なっていたからであろう。
しかし、それからすでに戦後80年を経た現在、柳生氏の問いが生じるのは当然のことである。
前述した「前衛的」なる俳句の潮流はすでに過去のものとして久しく、しかも、今この時の「現代」を考える場合となれば、「戦後俳句史観」による「現代俳句=前衛俳句」と現在におけるそれとは本質的に異なる。
もちろん、「前衛」という言葉が持つ先取性や革新性という本来的な潮流が今この時の「現代」に展開されることを以てすれば、「現代俳句=前衛俳句」という恒等式は今も充分に成立しうると思う。
そうした意味において柳生氏が金子兜太などによる句末の「た」を口語的な切字として、そこに「現代性」を指摘することに異論はない。
他にも現在における俳句の表現様式による現代性について柳生氏は深く考察していて興味深かった。こうした俳句の特質に基づく名称が「現代」に取って代わる日も近いかもしれない。
ところで、本来なら、全員が推す「現代俳句」五人五句について具体的に触れられたら良かったのだが、紙幅の都合もあり、これ以上、愚見を弄することは割愛させて頂く。
今回のアンケート調査は、現代俳句協会役員がその対象だけあって、「現代」の捉え方が一般的ではなかったかもしれないが、それでも、ちょうど昭和百年を迎える、まさに「現代」にあって「現代俳句」の意義を再考する良い機会となったことは間違いない。