湖畔
照井 翠
真白に汚されてゐる雪の朝
湖に霧氷の小枝生けらるる
透明な血を滴らし大氷柱
貴人みな遠流のさだめ冬落暉
地吹雪の刃のごとき風紋よ
女来て雪にくれなゐ吐きにけり
土に陰擦りつつ呼ばひ猫の恋
白鳥の首にて愛を交はしけり
音もなく奪はれてゆく牡丹雪
天井の無き監獄や鳥帰る
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百字鑑賞
照井 翠「湖畔」鑑賞
小田島渚
真白に汚されてゐる雪の朝
私はかつて、金子兜太が戦地から日本に帰還した後の一句〈切株あまた雪に現われ不安つづく〉に見られる雪の白さが恐怖、疲弊、喪失、狂気、不安を喚起させると評した。十句目まで読み通したとき、この雪の白さもまた耐え難い重さを持って積もっていることがわかる。
湖に霧氷の小枝生けらるる
厳しく冷たい風が吹きつけて樹木にできる霧氷。自然が作り出す宝石のようで、快晴のときは日に輝いてさらに美しい。湖という大きな器に生ける見えざる者の手が想像されるが、一連のなかでは戦死者への供花のようにも思えてくる。
透明な血を滴らし大氷柱
透明な血を滴らす者は、人間の文明によって数多の傷を負わされた山神であろうか。産業的な開発のみならず、戦争もまた自然環境を破壊するものである。大量出血となった怒りはやがて氷解し、海へと流れるが、怒りの輪廻のごとく雨となって山に戻る。この輪廻は断ち切られなければならない。
貴人みな遠流のさだめ冬落暉
古来より多くの者が流罪となってきたが、中には理由が定かでなかったり、冤罪であったりする者もいる。貴人は天皇や貴族ではなく、自身を顧みず困窮する者のために働く徳の高い人物であるように思う。民衆からの崇拝が、やがて権力者に恐れられ、理由もなく遠ざけられる運命となる不条理。
地吹雪の刃のごとき風紋よ
地上の雪が吹き上げられ、積雪の表面に出来た風紋が鋭い曲線を描いて刃のように見える。この刃が切りつけようとするのは、紀元前より争い、殺し合いをやめない人間であるように思われる。
女来て雪にくれなゐ吐きにけり
幻想的な世界。真っ白に汚された地を嫌悪し、血を吐く女性は、兵士の母親だろうか。戦場から帰らない子どもを待ち、苦しむ母親たちは、容赦なく大地を埋め尽くす雪に、生温かい鮮やかな自身の血をもって穴を穿ち、平和への道を開こうとする。
土に陰擦りつつ呼ばひ猫の恋
恋する者は猫に限らず必死である。夜這いは夫が妻のもとを訪ねる通い婚の風習だが、この雌猫は逆に目当ての雄猫を訪ねようとする。慎重に身を低めて近づく姿が生き生きとした生命の躍動を伝えてくる。
白鳥の首にて愛を交はしけり
白鳥の求愛ダンスは、互いに同じように羽を広げたり、首を上下させたりする。息が合うかどうかを見極めているのだろう。一度結ばれたら生涯夫婦として添い遂げるといわる。大切に育まれた愛も戦火に引き裂かれてしまう怖さが脳裏を過る。
音もなく奪はれてゆく牡丹雪
春の雪は、地上に触れるとすぐにほどけ、溶けてしまう。スローモーションを見るような静かで穏やかな時間。しかし、ひとたび戦争が起これば、同じ時間でありながら、戦争が私たちから何もかもを奪う。空爆や空襲警報の音も命を奪われたその瞬間からもう聞くことはできない。恐ろしい無音の世界。
天井の無き監獄や鳥帰る
イスラエルによって封鎖され、「天井のない監獄」と呼ばれるガザ地区。両者間で幾たびも激しい戦闘が行われてきた。今年1月、6週間の停戦合意がなされたが、戦闘は再開され、完全な停戦への道のりが危ぶまれている。渡り鳥の飛ぶ湖畔の空は戦地につながっている。その空を見上げ、平和を願って止まない。