秋田内陸線途中下車

泉屋おさむ

1 秋田内陸縦貫鉄道(秋田内陸線)は、みちのくの小京都と呼ばれる角館と、北秋田市を結ぶ第三セクターの鉄道で、国鉄の分割民営化の際、秋田県や沿線市町村等が出資して鉄道を存続させた全長94.2キロメートルのローカル線である。


陸線列車(泉屋氏撮影)

 奥羽本線鷹ノ巣駅に隣接し、秋田内陸線の起点となっている鷹巣駅に向かう。


秋田内陸線鷹巣駅(泉屋氏撮影)

 列車は車体がオレンジ色の単車のディーゼル機関車である。

 乗車して間もなく、発車を知らせるメロディーが流れた。大太鼓の躍動感溢れるリズムと鐘の音で構成された明るい曲調である。この駅メロは、平成30年に内陸線応援大使の向谷実さんにより制作された。向谷さんは国内外で活躍されたジャズフュージョンバンド「カシオペア」のキーボーディストである。
(大太鼓=綴子大太鼓は秋田県北秋田市に伝わる芸能で無形民俗文化財。太鼓は最も大きいもので直径3.8m、胴の長さ4.5m、重さ3.5tでギネス世界記録に認定されている。)
 今回は、起点の鷹巣駅から笑内(おかしない)駅までの間の沿線の歴史や風土に触れながらの探索である。

2 鷹ノ巣駅を出て一つ目の無人駅を通過すると刈田の風景となった。稲の切り株には青々とした「ひこばえ」が出ていた。この情景を「穭田」といい、秋の季語になっていることを知ったのは俳句をやるようになってかである。

  穭田やローカル線の軋む音    田中賢治

 電車は、三つ目の駅「縄文小ケ田」に差し掛かった。
 この駅から歩いて10分程の処に国指定の史跡「伊勢堂岱遺跡」がある。遺跡は、今から四千年前の縄文時代後期のもので環状列石(ストーンサークル)が四つも集中していて全国でも例がないものとなっている。
鷹巣を出て七つ目の駅「米内沢」で途中下車する。

3 成田為三のふるさと米内沢
(1) 米内沢は唱歌「浜辺の歌」の作曲で知られる成田為三の故郷である。駅から歩いて20分ほどのところに為三の記念館「浜辺の歌音楽館」がある。為三は、明治26年に北秋田郡米内沢町に生まれた。父は役場職員で母は駄菓子屋を営んでいた。


浜辺の歌音楽館(写真提供:北秋田市観光課)https://www.city.kitaakita.akita.jp/genre/kankou

 為三の父は自由主義的な人で幼少の為三少年にバイオリンを買い与えている。
 田舎町で小学校にオルガンが一台あるかないかの時代に特別な音楽教育を受けた分けでもないのに裏山や、寺の境内でバイオリンを弾く姿は強く人目を引いたという。
 為三は秋田師範を卒業後、大正3年に東京音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学した。作曲を志したが当時作曲科は無く、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に師事した。東京音楽学校在学中に、「はまべ(浜辺の歌)」を作曲しているが、郷里の阿仁川を浜辺に見立て作曲したと伝えられている。
 「浜辺の歌」は楽譜の表紙絵に美人画で有名な竹久夢二が手掛けたこともあってか、為三は一躍時の人となった。大正7年頃のことである。
 作曲家を目指していた為三は、東京市の赤坂小学校訓導になったころ、童話雑誌「赤い鳥」の主催者である鈴木三重吉と知り合い、その縁で、三木露風、北原白秋、西条八十などの詩人と交流し、「歌を忘れたカナリヤ」「雨」「りすりす子栗鼠」「赤い鳥小鳥」などの作品を発表した。
 大正11年、為三は30歳になっていたが、ドイツに音楽留学した。ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン教授に師事し、五年間作曲理論の体得に没頭した。
 帰国後、都下町田市在住の文子夫人と結婚した。
 為三は、昭和20年に空襲で滝野川の自宅が罹災したことから郷里の米内沢に疎開し、半年後に多摩川学園の教員として迎えら再度上京するが、上京して間もなく脳溢血で死去した。
享年53歳であった。為三は音楽館から数分の「竜淵寺」に眠っている。命日には、地元のコーラスグループが墓前で「浜辺の歌」を合唱し冥福を祈っている。

(ウエブ6月号につづく)