百瀬一兎「火の聲」を読む -蝶のゆくえ-
宮本佳世乃
百瀬一兎「火の聲」。タイトルだけを読んでもうっとりとしてしまう。火は、生命力や逞しさの象徴であるとともに、酸素を消費し燃えることで、生物や物体の崩壊をも引き起こす。何よりも火は天に向かって上がる。何かを希求するように。
では「火の聲」とは何であろうか。燃えている音とも違う、闇を湛えながら瑞々しく生きる火そのものだろうか。
こんなに簡単な言葉で書いてしまうのも気が引けるが、生きることは死ぬことだと思う。それは一日一日の連なり、それは過去、それはこころのありよう、それは情事、それは眠ってしまうこと。つまるところ、濃淡はあれど生死について詠んでいない俳句はないのである。
このことを前提に、「火の聲」50句から何句か引用したい。
蛍籠ひからないから骸です
星の死を見上ぐることも無き狼
といった「死」を直接的に詠んだ句もある。一句目は、蛍とは、光ることこそが鼓動なのだと捉えている。二句目は、星も狼も死線を超えているように見える。
人は口あけて息する川開
昆虫採集走つても走つても此岸
凌霄やうしろのしやうめんは夜か
竜頭巻く数秒は過去グラジオラス
秋暑し竜のにほひの情事せり
頭の隅を針金虫に明け渡す
などは、分かりやすい生死の表現だ。人間の呼吸と季節の循環、生命を追いかけるが故の此岸の越えられなさ、一日花のある闇、死と時間、実体のないものへの成り代わり、精神や肉体を喪うこと。どの句も、同時同場所に作者自身が存在する。
さて、この50句にはところどころにちらちらと蝶が舞っている。
飛び立つて蝶もう戻らないつもり
てふてふや空は口開け待つてゐる
脱ぎ捨ててジャケットは展翅のかたち
白鍵のいろに乾いてしまつた蝶
50句にさっと目を通したときは、蝶に希望を担わせたのかと感じていた。しかし、恐らくそうではないだろうと考えるようになった。もちろん、蝶は目の前にいるのだろうが、視点を変えれば、蝶は生への〈畏れ〉なのではないか。〈畏れ〉は、阿頼耶識に種子を植え、そこからふたたび表層に芽が生まれるのだろう。
さくらさくら祖母を燃やした火はどんな
結尾の句。火が天に上る美しさが存分に表れている。
三木清は「死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである」と『人生論ノート』に記した。
人生は有涯だ。だからこそ、俳句を書く。
ここで作者である百瀬一兎さんについて少しだけ触れたい。
「炎環」には2024年3月に入会、7月号に初投句。同年夏の「炎環賞」20句「九夏小品」では初投句にして次点となる。
浮世絵の雨は灰色ところてん
銅像の少女の怒り守宮這ふ
2025年1月号では初巻頭となる。
婦人降りタクシーたゆん露の駅
初投句が掲載されて若干半年で巻頭作家となり、まさに大型新人現る、を地でいくような感じ。炎環誌上の鼎談月評では、ほぼ毎回句が俎上に乗る。独自性を持ち、目に留まる句を書き続ける存在である。
結びに、大好きな句を。
躓きて兎をおどかしてしまつた
雪のなかを音を立てないように歩いていたのに、思いがけず躓いてしまった。自分で自分に驚いているようだ。ナイーブかつ耽美。生きているこころが伝わってくる俳句だと思う。