『現代俳句』では「昭和百年/戦後八十年 今、現代俳句とは何か」を2025年の通年テーマにかかげています。その一環として、副会長・理事・監事・事務局長を対象にアンケートを実施しました。調査では冒頭、編集部からの呼び掛けを掲載しました。
西暦2025年、令和7年に当たる今年。昭和が始まって100年、わが国の無条件降伏で第二次世界大戦が終結して80年という大きな節目に当たります。俳句にとっても、昭和がスタート早々の3年に俳誌「破魔弓」が水原秋櫻子の提案で「馬酔木」と改称、新興俳句運動の拠点となっていきます。現代俳句協会自体、終戦直後の昭和21年に発表された「俳句第二芸術論」の衝撃の中、翌22年に誕生しました。そしてこの10年来、昭和元年から60有余年の間に詠まれた有名無名の句を網羅すべく、取り組んできた『昭和俳句作品年表』も最終巻の刊行が年内に実現します。「今、この時」としての現代を、日本や俳句の歴史と関連させつつ、どう位置付けるか、改めて考えをめぐらせる絶好の機会ではないでしょうか。
当協会は「現代俳句」を限定的に定義し、その理念に従う者のみを受け入れる「閉じた集団」としての在りかたをよしとしていません。正反対の「俳句自由」の開かれた精神こそを、協会の根本理念と位置付けているのです。一方で、それだからこそ「現代俳句」とは何か、具体的にどのような作品を指すのか、さらに自身は現代俳句にどのように向き合うのか、という問題を協会員一人一人が考え、自分なりの回答を模索し、互いに論じ合うことが求められるともいえます。
続いて、以下の質問項目を提起しました。
1.私が推す「現代俳句」五人五句選
2.現代俳句の「現代」を時期として捉えると①昭和以降 ②第二次大戦終結後 ③平成以降 ④時期の限定はない ⑤その他(正岡子規以降など)その結果を連載の形で掲載します。
秋尾 敏副会長
1.私が推す五人五句
星崎の闇を見よとや啼千鳥 松尾芭蕉
やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ 富澤赤黄男
雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸邨
雲秋意琴を売らんと横抱きに 中島斌雄
稲妻の切っ先鈍る夜の河 河合凱夫
2.現代俳句の「現代」は
④時期の限定はない
読者論に立てば、現代の読者に深い感銘をもたらし、その生き方に影響を与えた句はすべて現代俳句であろう。私の俳句の基盤となった句から選んだ。
網野月を常務理事
1.私が推す五人五句
径白く白夜の森に我をさそふ 成瀬正俊
鐵をふ鐵バクテリア鐵の中 三橋敏雄
君子蘭客の一人が豹変す 島津城子
象嵌の金の失せしよ早寝島 山本紫黄
死んでから先が永さう冬ざくら 桑原三郎
2.現代俳句の「現代」は
④時期の限定はない
3.コメント
・選句については敢えて〈現代〉というキーワードは意識していない。一句として成立しているかどうかが、選句の基準としている。
・〈現代俳句〉観については、現代は未来にもあるし、過去にもある、と考えている。
この作家のあの句からこの句までが現代俳句ということであるのか、その作家は全てが現代より以前の俳句、あの作家は唯一一句だけが現代俳句ということであるのか。数百年前の句でも、作者を明かされなければ現代俳句として読めることもあるということである。
いつ作句されたのか、誰が作句したかは問題外であろう。では読み手が〈現代俳句〉として読めば〈現代俳句〉といって良いのであろうか。
つまりは、当該の句はどの時点で俳句(句)として成立するのかの問題を孕んでいることになる。誰が詠んだのか、いつ詠まれたのか、誰が読むか、いつ読むか、・・・様々な問題を孕んでいることになる。そこまで突き詰めると、〈現代俳句〉を定義付けすることがどのような意味を有するのか、自問することになり、自答することの不可能性を自覚するのである。
全ての俳句が〈現代俳句〉であり、〈伝統俳句〉であり、もしかしたら〈未来俳句〉になり得るということである。
そういう意味で、キーワード〈現代〉という切り口で考えた場合、時間は空間を捻じ曲げている。人の生きる世が全て三次元の空間で、等速度の時間に支配されているということは幻想なのであるから。
木村聡雄理事
1.私が推す五人五句
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 日野草城
石の上に 秋の鬼ゐて火を焚けり 富澤赤黄男
吹き沈む/野分の/谷の/耳さとき蛇 高柳重信
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太
2.現代俳句の「現代」は
①昭和以降
3.コメント
「新興俳句以降」
現代という時代の統一的定義は難しい。私にとって現代俳句とは、単にそれぞれの時代に応じて移り変わる主題や表現傾向ではなく、普遍的な俳句表現の歴史的区分のひとつとしてあるべきだと思われる。
今年は昭和百年、私にとっての現代俳句はその昭和初期から始まる。新興俳句運動が生まれたときからである。現代俳句の出発点となるべき新興俳句運動は、自由な主題や主観的な表現においてそれ以前の時代とはっきり分けられる。虚子の説く花鳥諷詠から脱しようという点で引用句をはじめとして一定の成果を得て、写生を超えた個人の心情表現は今や多くの俳人たちに支持されている。
しかしながらこれは現代俳句初期段階と考えられる。この後に現代俳句の決定的な始まりがやってくるからである。新興俳句運動開始から数年後、さらなる表現の自由を求めて無季容認説が生じる。(この時点で初期新興俳句の有季派主導者たちは運動から離脱してゆく。)季語からの脱却は後期新興俳句運動の象徴ともなったが、実は季語の捉え方だけでなく、俳句の名のもとの表現の自由を尊重できるか否かという、言語芸術としての本質的な問題と関わっているだろう(現代俳句協会式に言えば「俳諧自由/俳句自由」)。これは依然解決されずに今日に至っていると感じられる。自らの表現とともに他者の表現の自由も尊重したところにこそ、二十一世紀の俳句があるに違いない。
久保純夫副会長
1.私が推す五人五句
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり 鈴木六林男
おやゆびとひとさしゆびでつまむ涙 阿部青鞋
2.現代俳句の「現代」は
④時期の限定はない
後藤 章専務理事
1.私が推す五人五句
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
川を見るバナナの皮は手より落ち 高浜虚子
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 山口誓子
銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく 金子兜太
十一 堀田季何
2.現代俳句の「現代」は
自身の考え方に当てはまるのは ⑤その他(河東碧梧桐以降)
3.コメント
現代とは、常に理性が肉体を抑え込もうとしてきた近代の成れの果てである。近代は如何にして身体を忘れようとしてきたか。そのことにより科学的成果を生み出し、いわゆる文明という物を発展させてきた。その間に世界戦争という惨劇を生み出してもその歩みは止むことが無いまま現在に続いている。
同じ近代のパッションが俳句では写生という方法を選択させてきた。つまり視覚優先であった。現代俳句とはそのことへの各人の無意識の格闘の姿、自分の内なる自然をいかに解放するかの闘いの軌跡であったのではなかろうか。
その意味で忠実なる写生を試みて破綻に至った河東碧梧桐を現代俳句の魁に置く。つぎにその破綻の中に精神の空白を抱え込まずにはいられなかった高浜虚子が続く。と同時に近代の叡知を信じて疑わない知性の山口誓子がにこりともしないでその隣りに佇んでいる。しかしその近代は戦争という災厄の中に人類を追い込んだ。その廃墟の中から金子兜太という近代精神とアニミズムのキメラが突如現れた。さて現在であるがここに堀田季何を上げてみる。なぜならここにあげた句は理性俳句の極みであるが、季何の作品全体の方向性は自然を取り込む意識に満ちているからである。その証拠に『人類の午後』と『星貌』を同時出版した。この矛盾が現在の最先端の現代俳句なのだ。
当然江戸時代中から近代的意識の萌芽はあるのだが、俳句としての現代の始まりは、やはり河東碧梧桐が椿の句を作った時点を現代のはじめとしたい。
田口 武理事
1.私が推す五人五句
めぐり立つ雪山胸がどきどきする 瀧 春一
立葵 変電所まで変な道 鈴木石夫
日は氷ひ 前田 弘
なはとびの少女おびただしき少女 宮崎大地
クレヨンの黄を麦秋のために折る 林 桂
2.現代俳句の「現代」は
②第二次大戦終結後
3.コメント
自分なりの回答を模索してみました。その過程で「今、この時に書かれた句は全て現代俳句」ではないかということがアタマに浮かんできてしまいました。このような答えは求められていないと承知していてもこの考えが払拭できません。たとえば、『現代俳句年鑑2025』の「諸家近詠」に掲載されている作品の全てが「現代俳句」であるということです。過去にあってもその時その時に書かれた句は、その時の「現代俳句」だったのではないかと。
私は、昭和40年代後半から俳句を趣味にしていて、50年代には『俳句』や『俳句研究』の熱心な読者でした。そこに頻出していた「伝統」と「前衛」ですが、当時の「前衛」やそれに近い句が「現代俳句」とは考えませんし、また、「伝統」の「有季定型」「花鳥諷詠」を古いといってしまうのは、それはそれで閉じた考えになると思っています。
「俳句自由」には「伝統俳句」「花鳥諷詠」も含み、今、この時に作家一人一人がそれぞれの考えで書いた俳句全てが「現代俳句」ではないかと。
この考えからすれば、ごく最近の句を「私が推す「現代俳句」」として記入することもできるのですが、記入した句は、初学時代か、それから少し経ってから身近にあった句で、今でも折に触れて浮かんでくる句です。口語のような句、分かち書きの句、短詩のような句、青春性に溢れた句……。それまで私が漠然と考えていた縛りから解放されたような句に「俳句自由」を感じたのでした。当時はこれらの句を「現代俳句」と思っていたのかもしれませんし、今も「現代俳句」として古くなっていません。その時の「現代俳句」は今も「現代俳句」であり続けています。
過去にあって、その時その時の句が「現代俳句」であるといっても古典までは遡れません。
2の設問にも答えるなら、②第二次大戦終結後、現代俳句協会が設立された昭和22年頃が一つの線引きになるのではないかと考えます。
筑紫磐井副会長
1.私が推す五人五句
去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子
海を失い楽器のように散らばる拒否 金子兜太
牡丹ていっくに蕪村ずること二三片 加藤郁乎
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ
なかはられいこ
2.現代俳句の「現代」は
②第二次大戦終結後
3.コメント
桑原武夫の「第二芸術――現代俳句について」(昭和21年11月)が岩波書店「世界」に発表されたことを契機に、俳句は「現代俳句」たり得るかの課題が設定された。この「第二芸術」に対し俳壇から様々な批判が提出されたにもかかわらず、俳句運動としては、戦前の人間探求派(主として中村草田男、加藤楸邨)の社会性ある俳句が詠出され、彼らの影響を受けた社会性俳句が戦後派世代を中心に噴出し新しい俳句を生み出したのである。現代俳句協会が発展したのはまさにこんな時代であった。
ただ社会性俳句が基地俳句を中心とした素材を中心とした作品群であったのに対し、後期社会性俳句からは表現に関心を移し、プレ前衛俳句、やがて伝統派における心象俳句が詠まれるようになり、金子兜太、飯田龍太、森澄雄、能村登四郎らが戦後世代を構築した。これは同じ第二芸術論の影響を受けながら、明治以来の短歌滅亡論を再燃させ、その後前衛短歌を生み出した短歌とは少しく異なった道筋をたどるものであったのである。
もちろんこうした見方は俳句史観により大きく異なるものであり、私の考えは「戦後俳句史観」と呼ぶべきものである。戦後俳句史観に立つことにより、1970年以降の俳句の変質も見えて来、平成・令和がどんな時代であったかもわかるようになる(私は一種の無風時代と考えている)。そしてこれを踏まえてやっと未来の俳句の姿を語る事が出来るようになると思うのである。
一方で新興俳句を主軸に置く史観に立つ立場(昭和俳句史観)の人もあるようである。しかし、「昭和俳句」は、昭和俳句以後の平成・令和をどう見るかにより大きく変わってくる。大正・昭和の俳句が、明治俳句を子規一色しかない俳句の見方に変えたのである(実際は子規以外の俳句の方が明治はまだ多かった)。平成・令和俳句を見る目が、昭和俳句に投影されるべきなのだ。現在を語らないで昭和俳句を語ろうとするのはナンセンスである。その意味でならば、「昭和100年」という考え方も十分説得性があると思う。
永井江美子副会長
1.私が推す五人五句
遠いことのように握る さくら明りの牛乳瓶 中野 茂
衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く 桂 信子
うすぐらきからだのかたち殘花戒 小川双々子
きみのからだはもはや蠅からしか見えぬ 中烏健二
君はまだすすきを優しく折れるか 白木 忠
2.現代俳句の「現代」は
①昭和以降
3.コメント
私にとって現代俳句とは?という問いは、私にとっての俳句とは如何なものかと等しい。今から六十年弱前、少し詩に関心のあった私が、詩のような俳句を書くグループの「中野茂」という人と出会ったことからそれは始まった。
氏は〈俳句の形式とは本来自由なもので、定型も、自由律も、無季も可。それよりも、今われわれがこの時代に生きているのだという生の鼓動や、自己の内面を俳句という詩で書いていきたい〉と語っていた。
目の前に在る風景を言い留めたり、自己表出をするだけではなく、言葉を紡ぐことによって自分でも良く解らない、自分というモノが見えたり、言葉の奥の見えないモノが見えたりと、何もかもが新鮮であった。現代に生きる私たちは現代の俳句を書かなければだめだと叱咤激励され、それが「現代俳句」であると思ってきた。
その時々の現代を生き、俳句の秘めている毒をこそ欲しいと思った時、私の推した俳人たちの句は、確かに、毒と魅力を与えてくれたのである。
なつはづき理事
1.私が推す五人五句
古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
かなしみの片手ひらいて渡り鳥 AI一茶くん
2.現代俳句の「現代」は
④時期の限定はない
3.コメント
「現代俳句」の「現代」は今生きている「此処」である。しかし、江戸時代には江戸時代の「此処」があり、令和の世にもやっぱり「此処」がある。なので、どこか特定な期間に出された句を「現代俳句」とは考えていない。まさに「いまを詠んだ俳句」が現代俳句である。また「現代」というからには「過去」や「未来」という時間軸も存在する。詠まれたその時に「過去から見たら新しいか」という事、そして「その俳句がその先の世に読み継がれているのか(または読み継がれるであろうと思われるか)」も大事な要素であるだろう。一見、松尾芭蕉の句が「現代俳句」という事に違和感があるかもしれないが、あの当時としては河鹿蛙の声を詠まないという革命的な句であったし、今でも詠み継がれている、もしかしたら俳句をやっていない人にとっては最も良く知られた一句だろう。子規の一句も一般的に知られているという点では芭蕉の句と同じだが、掲句はどうやら発表された当時は反響がなかったようである。それでも子規の最も知られた句となった経緯には多くの人々の「評価(批判も含めて)があったからである。その瞬間輝いて消えてしまうとすれば「現代俳句」ではなく「その時代の有名句」で終わってしまう。多くの俳人、多くの俳句がある中、時代を超えて残り続けるという事がいかに大変かは言わずもがなな事であろう。
さて、今までの理屈でいくと、今目の前の俳句をどう判断するのか、実は難しくなってくる。「今」の評価が何十年か後、何百年か後どうなっているのか、自身で生きて確かめられないからだ。ただ基準がないわけではない。「新しさ」はもちろん、そのうえで「評価はもちろん一定の批判もあり」という句がこの先残っていくであろうと思われる。金子兜太氏の句は残るであろう。その中でも賛否が分かれる掲句は残ると確信している。池田澄子氏の軽快な口語でありながら、時代を超えても諦念や劣等感という人間の感情がある限りは残るであろう。また、この先はAI俳句も特別なものではなくなってくるだろう。その際、人々がその可能性に驚いた掲句も語り継がれると思われる。
「一瞬を切り取るのが俳句である。」初学の頃教えられたことである。その切り取られた一瞬は切り取られた瞬間に「永遠」の時を生きる。そしてその一句に命を吹き込んでいくのは「現代」を生きている我々である。人間に感情がある限り、その琴線に触れる句は残っていく。
福本弘明副会長
1.私が推す五人五句
蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋
身をそらす虹の/絶巓/処刑台 高柳重信
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
夕焼雀砂あび砂に死の記憶 穴井 太
2.現代俳句の「現代」は
②第二次大戦終結後
3.コメント
「現代」を辞書的に解釈すれば、まずは現在只今の時代という意味になるが、このアンケートでは俳句の歴史区分としての「現代」をどうとらえるかという質問と思われる。
俳句作品に注目すると、昭和前期の新興俳句の時代辺りからかと思うが、俳人が身を置く環境に視点を当て、自由に作品を発表することができる時代を「現代」とすれば、終戦後ではないかと考える。新興俳句の作家たちが戦時下の弾圧により壊滅状態に追いやられたことを考えると、国家体制や俳人組織を気にすることなく、だれもが自由に俳句を書くことができる時代であることが「現代」ではないか。現代社会で話題になる「多様性」においても、お互いを認め合う時代でなければならないと思う。
そう考えると、現代俳句協会が標榜する「俳句自由」は、まさに「現代俳句」にふさわしい理念と思われる。
宮崎斗士理事
1.私が推す五人五句
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
合歓の花君と別れてうろつくよ 金子兜太
少年来る無心に充分に刺すために 阿部完市
八月の赤子はいまも宙を蹴る 宇多喜代子
針は今夜かがやくことがあるだろうか 大井恒行
2.現代俳句の「現代」は
④時期の限定はない
3.コメント
二十代の頃初めて出合った「広島や卵食ふ時口ひらく」、私に現代俳句の扉を開いてくれた一句だった。そして他の四句の作者は、私を現代俳句のエリアに導いてくださった、確と繋ぎとめてくださった方々である。
以上、企画の意図とは(たぶん)かけ離れた、極めて個人的なセレクトになってしまったが、他の選択肢が考えられなかった。
柳生正名理事
1.私が推す五人五句
おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太
ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒 堀 葦男
甘草の芽のとび〳〵のひとならび 高野素十
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕井
陽炎より手が出て握り飯摑む 高野ムツオ
2.現代俳句の「現代」は
①昭和以降
3.コメント
個たる人間には「今」はあっても「現代」はない。ということは、「現代」には社会などの横方向の広がりと、過去未来や歴史のような縦方向の延長がそれぞれあるはずだ。「今」の俳句と「現代」の俳句との差異を考えることを、今回の五句五人選の根本に据えた。
その場合、「前衛俳句」については、少なくてもこの今が属する現代において現代俳句とは少しずれるのではないだろうか。その意味から、西洋詩論に根付いたポエジーの尊重や日本語もしくは意味の解体、図像性の優先などといった特質からイメージされる「前衛俳句」の名作は敢えて選ばなかった。それは価値を評価しないという意味ではまったくない。
かつて「現代俳句=前衛俳句」という恒等式が成り立つように思えた時代があった。この時代の前衛俳句にはひりひりと心に刺さる同時代的切実が感じられた。ただ、今、当時の前衛俳句やこの潮流を受け継ぐ昨今の俳句を今読むと、少なくとも個人的には、むしろある種の懐かしさを感じる。とするならば、俳句における今この時の「現代」を考える場合、「現代俳句=前衛俳句」の恒等式がなりたつ時代といえるのか、問題提起したい。
個々の選句について説明する。
〈おおかみに〉は俳句総合誌の「平成の名句」アンケートで断トツの支持を集めた。昭和レトロが語られる今、一般的に言う「現代」を縦方向の延長で捉えた場合、少なくとも平成以降になるだろう。ならば、今回の当アンケートでも上位に登場するのが自然な流れだと思うが、結果はどうなるだろう。
「現代俳句」冊子版4月号の中村和弘「荊棘」評にも記したが、この句は人間を排除した自然を意味する「ウィルダネス」の景を捉えた作と解する。「荊棘」の栞で堀田季何が記したように、中村と同様、人間探求派としてスタートした兜太がいわば人間不在を詠むに至る―これがかつて「現代俳句=前衛俳句」が成り立った現代が、これの成り立たない現代へと移った、その変容に対応しているのではないか。兜太に即して言えば人間中心主義としてのヒューマニズムという思想が旧時代化し、その超克こそが喫緊の課題となる時代「人新世」になったことを意味するといってよい。
人間の都合のためには地球が温暖化し、核汚染が広がったとしてもやむなし、という人間中心主義、俳句は人間が実際に眼にしたことのみを描き、それ以外の存在は事実上認めないという人間中心主義からの脱却という意味でもある。地球にとっては、人間は不在でも自らの存続は可能であるが、ウィルダネスが亡びれば自らも滅するほかない。ウィルダネスを理解し、共存することが「人新世」たる現代の最優先事項であることは間違いない。
「付いていた」の「た」は口語の切字である。白泉の〈立つてゐた〉、家Kだ澄子の〈生まれたの〉などを思い返すにつけ、新傾向➡新興➡前衛・社会性という俳句の潮流において、句末の「た」が切字として成り立つに足る蓄積と熟成は進んだ。兜太のこの句において「現代俳句」における切字としての立場を確定させた、と言ってよいのではないか。「けり」という文語の俳句には詠嘆という非常に人間中心主義的な情感が込められている。これに対し、よりドライで人間の情をある意味で排除した「た」という言い切りは人新世の俳句表現に大きな存在意義を持つことになるだろう。
現代俳句において、従来以上に口語表現の持つ意味合いが多角化し、多用もされるだろうことは確かだ。その意味でもこの一句が、兜太亡き後の令和俳句の方向性も指し示すという先進性を示すことは特筆すべきだろう。
〈ぶつかる黒を〉。今回選んだうちでは、もっとも「前衛俳句」的である。ただ用いられた日本語は正調であり、イメージも明確、というよりイメージそのものを描き出している。具象ではなく、また何かの暗喩である前に、絵画的に言えばその筆致のダイナミズムの画像的な魅力のみで十分成り立っている一句である。マーク・ロスコやジャクソン・ポロックのような純粋な抽象画に比すべきものが言葉で成り立っている。散文はもちろん、詩や短歌でも容易に達成し得ない成果だと感じる。言い過ぎてしまうと元も子もなくす。だからこそ、最短詩形としての俳句の特質が浮かび上がるのである。
〈甘草の〉。水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱を現代俳句の出発点ととらえる考え方はかなり有力である。今回のアンケートでもそれは選択肢➁を選ぶという形で示されるのではないだろうか。ただこの一句は、むしろ秋櫻子が自らの離反に当って、批判のやり玉に挙げた作である。にもかかわらず、秋櫻子と素十の諸作を比較し、今という視点からより現代性を感じるのは素十の、例えばこの句である。まず兜太の「おおかみ」と同様、人間不在の句だ。やはりウィルダネスを描いている。客観写生の代表句と言われ、それは人間の目に映った草の芽の景をそのままえがいたという意味合いなのだが、実は素十の思いは地中の草の根茎、地上はとびとびのばらばらな存在にみえる芽を地中で結び付けているかもしれない、その存在に向けられているのではないか。だから「ひとならび」という言えそうで言えない表現が生まれている。個々別々なようで大きなひとつの命=佛性につながるという宗教的世界観を余分な情緒の表出なしに体言止めで言い切っている。地中という人間の目には見えないはずのものを主観写生しているといってもよい。
何より現代性を感じるのは、その音韻構成の巧みさである。「の」「と」「び」音のリズミカルな反復は「ぶつかる黒を」の「くろ」「おし」の反復と通じ、押韻(ライム)が宅に見汲み上げられている。昨今、日本発の楽曲が世界のヒットチャートをにぎわす現象が伝えられるが、いずれもラップが取り入れられ、それは母音による押韻を多用した日本語が意味を介さない層にも音楽的な美として伝わっているからに相違ない。押韻はこれからの現代俳句にとって大きな要素となることは間違いない。それを先取りした先進性は現代への大きなアピールとなる。
〈恋猫の〉。現代俳句を論じる際に、山本健吉の大著『現代俳句』を避けて通ることはできまい。新興俳句のほとんどや社会性俳句、前衛俳句をまとめて黙殺し、一方で正岡子規を起点として記す山本健吉の「現代俳句観」。これが今の時代にどれだけの意味を持つか、検討する必要はそれなりにあるが、結論としてそのまま受け入れることはできない相談だろう。その健吉『現代俳句』において、最も辛らつに、かつ相応のページを割いて酷評されているのがこの一句である。
当時「根原俳句」として新興俳句界隈でブーム化していたことへの反発からだろうが、「野狐禅」などそこまで言うかの感を抱かせる。こうした口振りは、健吉が虚子の一部の句や星野立子、素十に向けるものと相通じている気がする。そうした句は純粋な客観写生でかつ一見他愛のないただごとに思われるものが多い。
健吉の言う通り、耕衣のこの句は恋猫=恋する猫ということに帰着し、論理学的には同語反復(トートロジー)に当たる。それ故、絶対的に正しく揺るぎない真理を体現している。ただ俳句では「恋猫」は季題「猫の恋」の傍題であり、季語であるので、数多くの句に詠まれた内容が結晶したひとつの大きな概念を意味する。これに対して〈恋する猫〉は目の前にいる実体としての個の猫であって、概念とは異質な実存である。両者の間の微妙な関係というのは論理哲学や存在論(オントロギー)では極めて切実な論点であり、その微妙な差異に着目した点こそ永田耕衣の句世界の持つ現代性を端的に示すと感じる。逆に言えば健吉の〈現代俳句〉論の持つ大きな問題点を浮き上がらせる、という目的もこの句を選んだ大きなポイントになっている。
〈陽炎より〉。本人の思いはともかく、社会的に「現代俳句の顔」というべき立場の作にであり、外すわけにはいかない、現代俳句の横方向の広がりを体現した句と感じる。
震災俳句としての現代性はもとよりだが、戦争、紛争、分断、介護などの多様な場面に共通する「ケア」や「支援」の問題とどこかで結びつく側面を感じる。直感的には、現代を見る視点として重要な「贈与」の問題も思い起こさせるきがするが、どんなものだろうか。(以上、敬称略)