梅の樹譚
伊藤左知子
あれは確か梅だったと思う。夏に青い実が育っていたと記憶しているのでたぶんそうだ。隣町へ抜ける小さな森林の、途中にぽっかり広がる空き地にぽつんと一本、立っていた。幼かったからか、随分と大きく感じた。
その梅の樹が満開だった。前年までほとんど花をつけなかったのに、その春はたわわに咲いた。「ああ、今年はちいちゃんの血肉が栄養になったのね」と、母が言ったのを、今でも鮮明に憶えている。前年、飼っていたうさぎが死んで、母とその梅の樹の下に埋めたのである。その屍骸が栄養分となり、朽ちかけていた梅の老木を甦らせたのだと母は言った。
「桜の樹の下には屍体が埋まつている」と書いたのは梶井基次郎である。この「桜の樹の下には」という小説を読んだとき、正確にはその一行目のこの文言を読んだとき、私はあの梅の樹とうさぎのちいちゃんを思い出した。腐って溶けて老木に吸い上げられた魂の名残のような紅色の花弁は、あのとき夕闇に鈍く光っていたように思う。
昨年、幼少の頃に住んでいたその町を訪ねた。周囲から隔離されたような団地の町だ。小学六年で引っ越して以来、訪れたことはなかった。町はほとんど変わらずにあった。私の住んでいた七号棟の部屋には見知らぬ人の洗濯物が干されていた。隣の家は以前と同じ名の表札だったが、同じ家族が住んでいるのかどうかは分からない。
梅の樹はなかった。というよりも、トンネルのようだった森林の抜け道は跡形もなく消えていた。隣町へは見晴らしのいいコンクリートの階段が下へと続いていた。町と町を隔てていた距離は、こんなにも短かったのかと驚いた。
さて、これを書いている三月末、東京では桜が開花し始めた。夏日と寒の戻りを繰り返し、やれ、いつが満開かとか、場所取りは朝七時集合ねとか、新入社員は強制参加と言ったらパワハラですよとか、お花見の幹事は気が気ではない。それでも毎年飽きもせず、桜の樹の下に集い我を忘れるのである。もしかしたら、屍が埋まっているかもしれないと妄想するのは私を含めほんの一部だとしても。
酔ひ飽きて夜桜に襲われてをり 左知子