宮城県 歌枕の地 ―松島・二人の詩人からー 仙台

渡辺誠一郎

〈松島〉松島は風景もさることながら、古来霊場として古くから知られる。そのため松島は、極楽浄土の理想の地として、多くの絵画に描かれた。一

 現実の松島の大きな島は、ほとんど塩竈市に属する。これらの島に人が住んでいることは知られていない。浦戸と呼ばれる4島には5集落がある。しかし東日本大震災の大津波によって、人口は激減し、現在は約300人が住む。島民は船で塩竈の中心辺へ通勤通学する他、海苔や蠣、刺網などの漁労や民宿のなどを営んでいる。本土から一番近い島までは、所要時間で30分ほどの近さ。島間は渡し船が無料で利用できる。

 島は常に海に開かれている。日本人で初めて世界一周したのは寒風澤島等の船員4人。藩政時代に、江戸を目指した千石船が福島沖で難破した漂流民である。ロシア人に助けられ、長崎まで送り返されたことで、初めて世界一周をした日本人なった。またこの島では、仙台藩初の洋式軍艦が建造され、千石船の風待ちの湊で賑わった。その名残りは、島の日和山にある遊女が願をかけた縛り地蔵などが残る。正木ゆう子は塩竈での佐藤鬼房俳句大会の後、島に足を延ばし〈寒き名を島にゐつけたる怒濤かな〉と詠んだ。

 芭蕉と曽良は、みちのくの旅で、塩竈から舟で松島に向かう。『おくのほそ道』には、松島の「雄島の磯につく」と記す。歌枕である雄島は、今も昔と変わらぬ風情を失わない。雄島は西の高野山に対する東の霊場。島内には今も多くの岩窟があり、仏体や卒塔婆が残る。また数多くの板碑とともに、〈朝よさを誰まつしまぞ片心 芭蕉〉〈松島や鶴に身をかれほととぎす 曽良〉などの碑が数多く建つ。〈朝よさ〉は松島を想像しての句。他に千代女などの碑もあり、俳人必見の島。松島の月は、この島から眺めるのがベスト。他には、伊達政宗建立の豪奢な瑞巌寺や五大堂も見逃せない。政宗が秀吉から拝領した茶室、観瀾亭において、海に浮かぶ島々を前に茶を啜るのも一興。


雄島 撮影:渡辺誠一郎

 松島は東日本大震災の津波に襲われたが、湾内の多くの島々が堤防の役目を果たし、被害は抑えられた。津波は瑞巌寺参道にも押し寄せたが、山門の手前で止まった。しかし参道の杉の巨木は塩害を被り、多くは伐採され、美観は変わった。現在は新たな植林が進む。

 子規は明治26年に松島を訪れ、この参道前の観月楼に宿を逗留した。しかしこの建物は、津波が押し寄せ今も尾補修が進む。この建物には、逗留した時の子規の写真があった話を聞いた。しかし津波でこの写真は失われ、子規の旅姿の手がかりが消えてしまったのだ。  

 松島では毎年、「松島芭蕉祭・全国俳句大会」が開催される。昨年で70回目を迎えた。松島は俳句の聖地である。

〈仙台〉仙台は東北最大の都市。現在は「杜の都」と呼ばれる。大通りの欅並木が見事。ただ仙台空襲で中心部が焼失し、風情ある建物は少ない。見るべきは周辺部。仙台城址、大崎八幡神社、陸奥国分寺・薬師堂。中心部では、空襲を免れた、東北大学の片平キャンパスの近代建築群は見逃せない。なかでも魯迅が学んだ階段教室が必見。

 仙台の始まりは政宗の時代からである。それ以前は、宮城野原と呼ばれ、萩の名所として知られ、多くの歌に詠まれた。仙台藩では代々萩守を置いたほどであった。伊達家は、萩が咲くとこれを江戸城に持ち込み、仙台藩の文化度をアピールすることも忘れなかった。蕪村は〈宮城野の萩更科のそばにいづれ〉と詠む。

 他に見どころとしては、芭蕉も訪れた榴岡天満宮である。境内の梅はもちろんだが、必見は境内の「俳諧碑林」とも呼ばれる句碑群。句碑だけでも19基が立ち並ぶ。芭蕉の碑は、仙台で詠んだ〈あやめ草足の結ばん草鞋の緒〉。なかでも見逃せないのは、享保8年建立の「大淀三千風追善 萬句俳諧奉納記」。三千風の矢数俳諧の記念碑。三千風は伊勢の俳諧師だが、仙台に15年間滞在。ここで一夜独吟三千句を成功させ、『仙台大矢数』を刊行。さらに芭蕉をはじめ全国の俳諧師などに呼び掛け、松島の詩歌俳『松島眺望集』を刊行し、松島の名を全国に広めた。


榴岡天満宮 撮影:渡辺誠一郎

 仙台と俳句との関わりでは、虚子と碧梧桐が共に旧制二高校時代、三か月ほど滞在した。また芝不器男も、東北帝大工学部に一時在学。虚子が絶賛した、〈あなたなる夜雨の葛のあばたかな〉「仙台につく、みちのくはるかなる伊豫のわが家をおもへば」はあまりにも有名。現在、不器男が寄宿した連坊小路の瑞雲寺には、この句を刻んだ碑が建つ。


不器男句碑 撮影:渡辺誠一郎

 仙台の文学者・詩人といえば土井晩翠。旧制二高の英語教師で、明治32年刊の処女詩集『天地有情』は一世を風靡した。「荒城の月」の詩はあまりにも有名。しかし晩翠は仙台空襲で3万巻に及ぶ蔵書と居宅を失う。これを知って、戦後に、晩翠を慕う教え子らの会―晩翠会が新たに居宅を提供した。現在の晩翠草堂である。仙台市の文学の記憶を残す貴重な建物である。是非足を運びたい。英語の教師の晩翠だが、その英語は仙台弁訛であったらしい。


晩翠草堂 撮影:渡辺誠一郎

 詩人といえば、当時晩翠と詩壇を二分した島崎藤村も、東北学院の英語教師として仙台に一時滞在。仙台で詠んだ詩をまとめた詩集『若菜集』によって、新しい新体詩の世界を切り開いた。駅東口に、藤村が下宿した地に、『若菜集』の蝶のデザインをモチーフにした広場がされている。

 仙台は近頃、芥川賞や直木賞の作家が数多く輩出している。仙台は杜の都から「文学の都」に変わりつつある。