宮城県 歌枕の地―多賀城・塩竈

渡辺誠一郎

 

  君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ

 「古今和歌集」の一句である。

 この末の松山には、東日本大震災の時に津波が押し寄せた。しかし伝説の通り、波は越えることはなかった。私の友人一家は、末の松山の近くに住んでいたが、地震の揺れが収まった時に、一目散に末の松山を目指したという。市の指定避難地でもあった。歌枕は現実のものとなった。しかし歌枕は、あくまでも幻想の世界。大震災を体験した時、高野ムツオは、〈泥かぶるたびに角組み光る蘆〉(碑に刻まれ市役所近くに建つ)と詠む。

 宮城県は東北の中でも、歌枕の最も多い地。歌枕巡りも一興である。 「古今和歌集」(東歌)には、塩竈の歌が二首載っている。

  陸奥はいづくはあれど塩竈の浦漕ぐ舟の綱手かなしも

  わが背子を都にやりて塩竈の籬の島のまつぞ恋しき

 塩竈は、松島と連続一体の景勝の地として歴史に登場した。大臣源融は、京に塩竈の風景を模した広大な邸宅、河原院を構え、難波から海水を運ばせ藻塩火を焚き、歌や酒などの饗宴を催した。この事からも、都人のみちのくへの憧憬がいかに深かったかうかがい知れる。ただそれはあくまでも「風景」に限られ、みちのくはあくまでも未開の地、異界の地であった。江戸期に生きた芭蕉は、この幻想を抱えたまま、みちのくを行脚する。古代のみちのく観通りに、松島(塩竈)を、「扶桑第一の好風の地」(「おくのほそ道」)と捉えたのである。そもそも松島は三景などではなかった。

 宮城県に歌枕が多いのは、八世紀初めに、蝦夷の住む陸奥国支配と奥羽辺境支配のために、多賀城に国府が置かれたことによる。そのため兵士のみならず歌を詠む都人が訪れ、歌を戸押して、みちのく幻想が膨らんだのである。末の松山の他に、浮島野田の玉川、沖の石などが町なかに点在する。

 芭蕉が訪れた頃、壺の碑と呼ばれた多賀城碑には、多賀城に国府を置いた経緯などが記されている。昨年、多賀城外郭の南門や南北大路が復元され、見どころが増えた。一方数百年にわたって、かたち作られた風景が変わり、かつての風情は失なわれたとの声もある。しかし政庁の建っていた丘陵は、古代そのままに変わりない貴重な景観を見せてくれる。


多賀城碑

 もう一つ見逃せないのは、政庁の東門跡から少し離れたところに鎮座する小さな社、荒脛巾(あらはばき)神社である。かつては東門の外側にあったとされる蝦夷の神社と伝わる。この社が、蝦夷の防御の為に、門外に置かれていたのは意味深である。その後、国府多賀城は廃城となるが、今でも少々ただならぬ空気を漂わせる社は時空を超えて、今もこの地に鎮座し続くけていることを思うと感慨深い。ぜひ足を運びたい。


荒脛巾神社

 先に述べた多賀城の北隣の町である塩竈は、JR仙石線に乗れば、10分足らずである。塩竈も歌枕の地。芭蕉と曽良が訪れた奥州一之宮の鹽竈神社をはじめ、籬島など見どころが多い。海抜約50メートルの丘に鎮座する鹽竈神社の境内には、芭蕉や子規が対面した義経の家来、泉三郎寄進の文治の鉄灯籠がいまも社殿前にあり、天然記念物である塩竈桜も見逃せない。


塩竈桜

 塩竈は国府多賀城の外港として栄え、江戸時代には、仙台藩の遊郭の町として賑わいを見せた。それ故酒造りが盛んであった。今日の地酒ブームの先鞭をつけた浦霞、そして阿部勘酒造は全国に知られる。生マグロの水揚げは全国でも有数で、寿司のまちとしてもよく知られる。塩竈は明治20年に、東北で初めて鉄道と近代的港が整備されたことで、爆発的な賑わい、発展を見せ、かつては東北の上海とも呼ばれたほどであった。

 芭蕉は「おくのほそ道」の旅で、塩竈に宿を取る。近頃、この時に曽良とともに入った銭湯の場所が推定できるようになった。芭蕉は文中で、「道の果て、塵土の境」などと、塩竈の辺境ぶりを強調するが、塩竈神社のきらびやかさや町の賑わいと、つじつま合わせに苦労しせざるを得なくなる。

 塩竈の俳人と言えば、佐藤鬼房である。鬼房は、大正8年に岩手県釜石に生まれたが、幼少のころに塩竈へ移住した。それ以後、一時東京にいたものの、ほとんどを塩竈の地で過ごす。学歴も乏しく、経済的にも恵まれない中で句作に励む。

  馬の目に雪ふり湾をひたぬらす  鬼房

 この句は、塩竈港の近くの冷凍工場の機械管理の仕事に就いていた頃の作品。夜勤があり厳しい生活であった。この句はまさに目の前の実景であった。鬼房の父は釜石だが、母は胆沢、今の岩手県奥州市の出身。胆沢は、蝦夷の酋長、阿弖流為の根拠地である。鬼房は自らを蝦夷の末裔とし、俳句を「弱者の文芸」と称した。それは自らの出自から自然に身についた文芸観であり、生き方そのものであった。鬼房の師であった西東三鬼が、塩竈で詠んだ〈男の別れ貝殻山の冷ゆる夏〉は良く知られる。男とは鬼房その人である。鬼房が眠る市の墓園には、〈切株があり愚直の斧があり〉の碑が建つ。近くには主宰誌小熊座の七星をモチーフにした、鬼房の句碑公園〈鬼房小径〉があり、立ち寄るのも一興である。

 塩竈も大震災では津波に襲われた。松島湾に浮かぶ四島五集落の半分は壊滅に近かった。市街地へは2mの津波が襲った。四十人以上が亡くなった。

  みちのくの春日が瘦せて鹹(しおからき)   誠一郎